競技の奥深さや魅力をスペシャリストに聞く「教えて○○さん」第3回は、フェンシング編です。高速の駆け引き、一瞬の突きと斬りが勝敗を分ける競技。その得点を判定しているのは、肉眼ではなく「電気審判器」です。ポイント獲得の仕組みや歴史、試合会場や映像中継を見て疑問に思う点を、72年ミュンヘン五輪で日本代表監督を務めた山本耕司さん(85=東京都フェンシング協会会長)に解説してもらいました。【取材・構成=木下淳】
-フェンシングは五輪種目の中でも珍しい電気審判器が特徴です。いつから採用されているんですか
「エペ、フルーレ、サーブルの順でエペは1936年から導入されています。フルーレは57年、最後のサーブルは88年でした」
-日本代表の対応は
「52年ヘルシンキ五輪から出場していますが、審判器が日本に入る前は遠征先や開催国で、対応の剣や防具を買っていたそうです」
-歴史は
「フェンシングは陸上、競泳、体操とともに1896年の第1回アテネ五輪からある競技です。起源の『決闘』では血を流したかどうかで判定していました。ですので、血も涙もない人は負けません(笑い)。競技になってからは肉眼の審判に不満も多く、強豪国が常に有利とされました。日本は国際大会で泣きっぱなしでしたが、電気審判器の導入で公正さが保たれ、競技人口も増加しています」
- 3月、GPドーハ大会の決勝で米国のマインハルト(右)と対戦する敷根崇裕。この大会の電気審判器はワイヤレスで腰に受信器を装着し、コードは胴体のメタルジャケットと剣につながっていた(C)日本フェンシング協会
-フルーレとエペは「突き」だけ、サーブルは「突き」と「斬り」の得点が認められています。どう判定しているんですか
「フルーレ、エペの剣先にはボタンが付いているんです。これをフルーレでは500グラム以上、エペでは750グラム以上の圧力で突くと電気信号が反応します。剣が、フルーレは胴体メタルジャケット(通電する有効面の防具)に、エペは全身に、サーブルは上半身に触れればランプが光ります」
-ランプの色は
「赤と緑で、ポイントを取った選手の側が点灯します。フルーレは無効面を突くと白く光ります。サーブルは無効面の下半身に当てると光らない仕組みです」
-エペだけ「同時突き」が認められるそうですね
「20分の1秒~25分の1秒という、わずかな時間の幅で同時に突き合った場合に両者の得点となります」
-剣の刃元のガードや床に当たった場合は
「ピスト(競技コート)の床はアルミ製でアースの役割があり、電気審判器が感知しないようになっています。ガードも同様です」
-剣が折れてしまう場面もたまに見ます
「確かに剣は電子機器が故障したり折れたりすることがあるので、選手は1試合に2本以上を持参しないと試合には出られません」
-電気審判器ということで正確なはずなのに、選手がビデオ判定を求めるシーンもよく見かけます
「判定補助として『ビデオ判定システム』があり、試合の当事者だけが要求できます。特にフルーレは(得点に必要な)攻撃の優先権がどちらにあるか確認するため、よく行われます。2回権利があり、主張が認められれば回数は減らず、認められなかった場合(いわゆるチャレンジ失敗)は要求権を1回、失います」
-審判が選手にカードを提示する場面も見ました
「イエローカードは警告で2枚目がレッドカード。ただ、サッカーのように退場ではなく相手に1ポイントが入ります。フェンシングで退場、失格処分になるのはブラックカードです」
-現在「ネクサスフェンシングクラブ」のマエストロである山本さん。後輩で、男子フルーレ東京五輪代表の敷根崇裕選手(ネクサス)が今年3月のグランプリ(GP)ドーハ大会で銀メダルを獲得した際は、審判器はワイヤレス式(無線)でした。東京五輪では
「コード式(有線)ではなく無線です。受信機を腰に装着し、電極を防具と剣につなぎます。得点するとマスク内蔵LEDが点灯する仕組みです。五輪では04年アテネ大会まで有線で行われ、08年北京大会から無線が導入されています」
◆エペ 足の裏まで含む全身が有効面。攻撃の優先権の規定がないため先に突いた方に点が入る。体のどこに剣先が当たっても有効となるため、高身長で腕のリーチの長い選手が有利。
◆フルーレ 胴体が有効面。先に腕を伸ばして相手に向けたり、前に進んだりした選手が攻撃の優先権を得る。相手の剣を払うと優先権を奪い返せる。細かい手先の技術が必要になる。
◆サーブル 胴体に頭部と両腕を含めた上半身が有効面。騎兵発祥で、下半身への攻撃は馬を切る不名誉だったため無効。剣先の突きだけでなく剣身の斬りで触れてもポイントになる。フルーレと同様に攻撃の優先権の規定はあるが、有効面が広いため手先の技術よりスピードが重視される。
<バッハ会長も元選手>
国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長(67)はフェンシング出身だ。西ドイツ代表として76年モントリオール五輪の男子フルーレ団体で金メダル。山本さんは、その4年前のミュンヘン大会で6位に入賞した日本代表を監督として率いており、その前後の国際大会では何度も西ドイツと対戦したという。「彼が出てきたのは自分の後のことになりますが、西ドイツとはよく当たりました。上位常連の強豪でしたね」と振り返った。
(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「東京五輪がやってくる」)