<96年アトランタ五輪 自転車1キロタイムトライアル銅 十文字貴信(40=茨城)>
僕の五輪出場は突然決まりました。競輪選手になって2年目に五輪最終選考会に出場できることになりました。当時は「日本人には1分3秒台は出せない」と言われた時代。でも練習では「どう失速しても1分3秒台が出せる」と確信していました。結果は1分3秒693で優勝。すると20分後くらいに「会見に出ろ」と呼ばれて…。それが橋本聖子さんと並んでの五輪出場会見。あまりに急でビックリしました。
五輪では「自己ベストを出したい」と思っていました。1分3秒がたまたまと思われるのが悔しかったし、競輪で結果を出す前だったので「競輪選手は弱い」と思われたくない、その一心でした。本番は緊張していたのでしょう。頭にあったのはスタートのタイミングを合わせるとか、バンク内側のスポンジを踏んで減速しないように、とか初心者が教わる基本(笑い)。最初の半周は少しボーッとしていました。でも、日本から来た師匠たちの声援が聞こえて自分を取り戻せました。結果は1分3秒261のベスト記録が出せて本当に満足でした。
自分の4位までが確定して、最後は王者シェーン・ケリー(オーストラリア)でした。「メダルは無理だ」と片付けていたらコーチが騒ぐんですよ。スタート直後にペダルと足を固定するバンドが外れてケリーが棄権。取手一高ではバンドが外れると、とんでもなく怒られるので、僕は足が引きちぎれるくらいバンドを引っ張るのが無意識に身についていた。後でVTRを見るとケリーはバンドを締めていないんです。「先へ、先へ」と気持ちがいっていたのでしょう。僕は正反対。初心者のような基本しか考えられなかった。これが五輪の怖さなんだと思いました。
帰国後のフィーバーはすごかった。当時、20歳の自分は余裕がありませんでした。帰国後は「五輪の十文字」を「競輪の十文字」にしたくて、練習で無理をして腰を痛めてしまい今に至ります。実は最近までメダルは本棚の奥にしまってありました。「まだ上を目指すんだから飾ったら終わりだ」ってね。でも、40歳を過ぎて余裕が出てきたのでしょう。部屋に飾ろうかなって心境になったんです。メダルを取ったばかりのころは、人前に出られないくらい苦しかったのに…。今は五輪に出て良かったと思えるようになりました。20年の東京五輪では、ぜひ自転車競技でメダルを取ってほしいなと願っています。
(2016年6月8日東京本社版掲載)
【注】年齢、記録などは本紙掲載時。