東京オリンピック(五輪)は新型コロナウイルス感染が急拡大し、多くの人が抱く不安を拭い去れないまま迎えることになった。この1年あまり、私たちは競技大会や選手、話題を取材しながら、コロナ禍で迎えることとも向き合ってきた。五輪には他に代えられない魅力がある、しかし今の日本でできるのか、明確な対策や根拠を示せないのであれば中止もやむを得ない-。「どうやったらできるかを考えてほしい」。昨年11月に体操の内村航平選手が発した言葉は、かけ声ばかりの「安全安心」に対する悲鳴にも聞こえた。競技開始を迎える今、重みを増している。

海外から選手や関係者が来日する段になり、空港や選手村で陽性、濃厚接触の例が出てきた。外出制限を徹底しきれないほころびも明らかになってきた。陽性3人が判明した男子サッカー日本代表の初戦の相手・南アフリカチームでは、試合3日前の19日に濃厚接触21人が特定された。ただでさえ、無観客開催やバブル方式などとられることになった感染対策は五輪の理念や描いていた形から遠ざけ、地元開催ゆえのプラスをほぼ削(そ)ぐ。そのような状況下での地元五輪を伝える意義とは。私たちも複雑な思いで対している。

私事で恐縮だが、五輪を最初に強く意識したのは教科書を通してだった。1970年代の一時期、小学4年の国語(光村図書)にあった「ゼッケン67」。マラソン銅メダルの円谷選手が6位入賞した64年東京五輪1万メートルが題材だが、描かれていたのは最下位のカルナナンダ(セイロン=現スリランカ)という選手で、周回遅れどころか3周も遅れながらひた走る。はじめは冷めていた7万大観衆の様子が徐々に変わり、最後は万雷の拍手と声援の中でゴールを迎える話だった。あきらめないことの大切さや、近代五輪創始者クーベルタンが唱えた「参加することに意義がある」を体現した話として知られるが、その尊さに気づく観衆の様子に心を動かされたことを覚えている。

五輪は毎大会、感動やドラマ、それにまつわる話で人々を惹(ひ)きつけてきた。競技が続けられる限りは、東京大会で生まれるであろうそれらをしっかり伝え、後世に残したい。どんな形でも身近な場所で行われていることを大切に思いたい。実体験としては記憶にない「ゼッケン67」が幼心に響いたのも舞台が東京だったことが後押ししたと感じている。

無論、感染対策に注視していく。競技開始後も何が起こるか分からず、対策には状況に応じて速やかな見直しや強化が必要であり、中断について考えることもやめてはならない。制限と縮小だらけの開催を通して、指摘されてきた商業主義や肥大化の問題について、また強引なまでに開催に突き進んだIOCや政府の発言と対応、開催プロセスを考証する意味もあるのではないか。「誰のための、何のための五輪か」をこれまで以上に問いながら伝える五輪となる。(357人目)