【100周年】阪神全74選手が「愛」を告白…私にとって、甲子園球場とは。/連載1
甲子園は8月1日に、開場100周年を迎えました。「あなたにとって甲子園は、どんな場所?」。本拠地とする阪神の全74選手に聞いてみました。熱い気持ちや思い出、独特な感性…。それぞれの個性が込められた一言がずらりと並びました。もうひとつたずねたのは「甲子園の一番の思い出は?」。幼少期、高校時代、プロ野球選手になってから…。鮮やかな記憶も十人十色です。
プロ野球
◆甲子園球場(こうしえんきゅうじょう)1924年(大13)8月1日に竣工。この年が十千十二支で「甲子(きのえね)の年」だったことから甲子園と命名。建設費は160万円だった。30年代からアルプススタンド、スコアボードがそろい、51年には戦争で供出されていた銀傘が復活。戦前はスキーのジャンプ大会、六代目菊五郎の歌舞伎公演も開催。本塁打の醍醐味を楽しんでもらうために設置した外野ラッキーゾーンは47年登場、92年に撤去された。10年に3期にわたるリニューアル工事を終了。銀傘を一、三塁側アルプス席まで拡張する計画で、28年3月に完成予定。両翼95メートル、中堅118メートル。収容人員は47359人。
青柳晃洋が好きな瞬間
「甲子園は1球投げるごとに、期待に包まれる感じがある。普段一緒にいないファンと近づける場所。ビジターではない光景です」
温かいファンの声援は、あの時も同じだった。
入団1年目の16年3月6日、初めて甲子園で登板したロッテ戦。
「10球連続ボール。緊張でストレートが入らなくて」
能見の後を受けて2番手で登板するも、ストライクが入らない。
3連続四死球を出し表情は引きつった。そんな時だった。
「ファンの方が拍手をくれて。ルーキーに声援をくれて、温かいと思いました」
2失点を喫すも、2イニング目は自分を取り戻して3者凡退。マウンドで聞こえてきたエールが力になった。
青柳には、今でも好きな瞬間がある。
「マウンドに上がる時の歓声が、いまだに先発してても好きです。ファンと一体になれる感じがあります」
ファンの存在こそが、青柳の力となっている。
才木浩人の心に残ること
「学生はやっぱり憧れる場所じゃないですか。聖地というところだから」
兵庫・神戸市出身。地元で幼少期には観戦でも足を運んできた球場だが、須磨翔風高(兵庫)時代は甲子園出場に届かなかった。
だからこそ、阪神に入団してプロ初登板となった甲子園での一戦は心に残っている。
17年の10月5日中日戦。8回に登板し、1イニングを無失点で抑えた。
「ファームでは(甲子園でも)投げていたけど、1軍では初めてだったから。やっぱり、ファンの人がいっぱいる中ですごい雰囲気を感じたので。甲子園球場の雰囲気を感じました」
初めて味わった雰囲気は今も心に残る。
現在はプロ8年目を迎え、先発陣をけん引する立場となった。
聖地の大観衆を沸かせる投球を、これからも続けていく。
サッカーの町で育った岩崎優の思い
高校は清水東(静岡)。
サッカーで有名だが野球部は久しく甲子園から遠ざかっている。
「高校の時は甲子園にそこまで憧れていたかと言えばそうでもなかった。手が届かなすぎて、遠い所すぎて」
苦笑まじりに言った。
プロ入りもドラフト5位と〝下〟からのスタート。
「プロに入って、最初はここで投げられるようにしないと、という目標の存在でした。そこからは育ててもらったという面もあります」
今や、押しも押されもせぬリリーフエースだ。
天国か地獄…岩貞祐太の重い言葉
プロ11年目。先発として、中継ぎとして、酸いも甘いも経験してきた。
「抑えれば天国、打たれれば地獄」
タテジマのユニホームでさまざまな経験をしてきた左腕だからこそ口にできる言葉だ。
甲子園での一番の思い出は、12歳だった04年3月のセンバツに初めて訪れた時。
印象に残るのは地元の熊本工と、前年夏に準優勝していた東北(宮城)のダルビッシュが相まみえた一戦だった。
「一塁側にいたんですけど、ノーヒットノーランで」
大会史上12人目となる偉業達成に、盛り上がるスタンド。
初めて感じた雰囲気は忘れられない。
「甲子園は広いなと思いました」
その10年後、スタンドから見ていた聖地は本拠地になった。抑えるうれしさも、打たれるこわさも知るからこそ、左腕は一心に腕を振り続ける。
西勇輝「まんまやった」
「マウンドに上がれるだけで幸せがあります」
登板する度喜びをかみしめる聖地。
初めてやってきたのは08年、菰野高(三重)3年夏の甲子園だった。
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