ピンク色の桜の花びらが、空を舞い始める頃。林千夏さんの携帯が、メッセージの受信を知らせる。「今年もよろしくお願いします!」。送信主は、日本代表DF吉田麻也(34)。愛知県内で花屋を営む林さんへ「感謝の花束」の注文だ。

「18、19歳からずっとやっています。麻也ちゃんの実家と、お母さんのようにお世話になったという方へ2件。結婚されてからは奥さんの実家にも贈っています」

「いつも通りで」と細かい注文のない吉田に代わり、林さんはどんな花を選ぶか思案する。今年は紫色が鮮やかなラベンダーと、ゼラニウム。柔らかい香りがする美しい鉢植えに、吉田の思いを込めた。15年も続く恒例行事だ。

「応援してくれる方、お世話になっている方に、本当にしっかりされているんです」。感謝の気持ちを忘れないからこそ、たくさんの人に応援され、日本代表の主将を託されるまでになった。毎年贈るのは、花束だけでない。お正月には年賀状、真夏には暑中見舞い。その年を象徴する吉田の写真に、自身のサインが入っている。

今年の夏。届いたはがきには日本代表のユニホームで雄たけびを上げる姿とともに、力強いメッセージがつづられていた。「夢は大きく 志は高く いよいよワールドカップカタール大会へ出場します キャプテンの重責を果たすべく頑張ります」。18歳の頃から変わらぬ律義な心。もちろん真面目で、優しい一面だけで、プロの世界を渡り歩いてきたわけではない。

21年10月7日。W杯アジア最終予選で日本代表は、サウジアラビア相手に痛恨の2敗目を喫した。試合後には、相手サポーターから差別的なジェスチャーを受けるものものしい雰囲気。それでも吉田は、毅然(きぜん)と言葉を発した。「まだ終わってない。その時に結果が出てなければ協会、監督、選手も責任を取る覚悟はできている。終わってから判断してもらえばいいと思う」。チームのために、自分が矢面に立つ。その気迫はまだプロを夢見ていた頃、10代からすでに備えていた。

名古屋ジュニアユース時代。主将を務めていた吉田は、15歳も上の今久保隆博監督へ訴えた。「個人の意思とか決断を、なんで尊重してあげないんですか」。中学時代最後の全国大会がかかった決勝の直前だった。ユース昇格が決まっていた主力選手が、最終的に高校のサッカー部に進むことを決断。クラブの事情で、試合に起用しないことが決まった。「彼が最終的に選んだことがそんなに悪いことなんですか」。仲間を思う吉田は強かった。

今久保さんは当時を懐かしむ。「最後までその子の味方についたのは麻也でした。困ったり、練習で理解できていない子がいたら、その声を代弁して僕のところに言いにくる。チームを俯瞰(ふかん)して見ていました」。チームを代表して堂々と言葉を発するのも大切な主将力。「(ジュニアユースの)セレクションの時は本当に印象がないんです。特別うまい選手ではなかった、これは断言できます(笑い)」。当時の吉田について周囲が覚えているのは、長身とサラサラの長髪。技術をも超越したのは、類いまれなキャプテンシーだった。

3人兄弟の末っ子として誕生。長崎の海に程近い家には、いつも多くの人がひっきりなしに訪れた。幼少期に培われた気さくで人懐こい性格は、人をひきつける力になった。

感謝の心、主張する力、コミュニケーション能力-。その根底にあるのは、周囲の人を大切にする思いだ。日本を代表する選手になっても変わらない人柄、そしてキャプテンシー。もちろん、3大会連続の大舞台に立っても変わることはない。【磯綾乃】(おわり)

◆吉田麻也(よしだ・まや)1988年(昭63)8月24日、長崎県生まれ。名古屋下部組織から07年トップ昇格。10年1月にオランダのVVVフェンロに移籍し、12年8月からプレミアリーグのサウサンプトン。20年1月末にセリエAのサンプドリアに移籍し、今季からブンデスリーガのシャルケでプレー。五輪は21年東京を含む3大会に出場し、W杯は3大会目。日本プロサッカー選手会(JPFA)会長。189センチ、87キロ。愛称「マヤ」。

吉田が今年の母の日に、母やお世話になった人に贈った鉢植え(林さん提供)
吉田が今年の母の日に、母やお世話になった人に贈った鉢植え(林さん提供)
カフェ「ガーランド」で取材を受ける名古屋時代の吉田(右)(林さん提供)
カフェ「ガーランド」で取材を受ける名古屋時代の吉田(右)(林さん提供)
吉田が今夏に送った暑中見舞い(林さん提供)
吉田が今夏に送った暑中見舞い(林さん提供)
ランニングをする吉田(左から5人目)ら日本代表の選手たち(撮影・横山健太)
ランニングをする吉田(左から5人目)ら日本代表の選手たち(撮影・横山健太)