ニッカンスポーツ・コムが新設したフィギュアスケート特集ページ「Figure365(フィギュア365)」で連載中の「色あせぬ煌(きら)めき」。日本の歴史を紡いできた名フィギュアスケーターや指導者が、最も心を動かされた演技を振り返る。第10回は88年カルガリー五輪(オリンピック)女子シングル代表の八木沼純子(47)が、トリプルアクセル(3回転半ジャンプ)に女子では世界で初めて成功した伊藤みどり(50)を語る。アジア勢初の金メダルに輝いた89年世界選手権パリ大会が忘れられない。
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伊藤が猛スピードで迫ってくる。その姿がどんどん大きくなる。八木沼は祈った。「お願い、リンクから飛び出さないで」。先に演技を終え、応援していた観客席。伊藤がトリプルアクセルの発動体勢で近づいてきた。前向きに、高く鋭く跳び上がる。防護壁を越えたように、見えたほどの迫力で着氷。回り切った。世界選手権で初めて女子が3回転半を成功させた瞬間。競技中の本人も思わず「わぁ」と口を開けて喜んだ。
八木沼は「氷がすぐそこに見える間近な席で見ていました」。鮮明に覚えている。「本当に客席の自分に向かって飛び込んでくる感じ。それくらい大きく見えました」。当時、世界で1人だけ跳べた高難度ジャンプを可能にするスピードと跳躍力は、手なずけることすら難しい。「公式のリンクの大きさは決まっているのですが、微妙に幅が違うこともあります。公式練習で何度もフェンスにぶつかっていたことがありましたので」。唯一の懸念が勢いだったが、無用の心配だった。
沸騰する場内。「『わあっ』という歓声と拍手が、ものすごかった」。鳥肌も立ったが、一方でどこか冷静な自分もいた。「年下の私が言うのも失礼かと思いますが、ジャンプ自体は成功すると確信していました」。冒頭の3回転ルッツが完璧に決まり、気分良く迎えた2本目が3回転半。「その時に思ったのは『すごい!』よりも『やっぱり!』でした。踏み切る前のカーブが100%成功する時の軌道でしたから。これは優勝、間違いないって」。
前年から成功の予感はあった。カルガリー五輪。14歳、中学3年だった八木沼は3学年上の伊藤とともに代表に選ばれた。「天才と呼ばれていた方でしたが、本当に天才でしたね、努力の」。本大会は4人部屋。アイスダンスの田中智子と伊藤、八木沼、日本スケート連盟スタッフと生活をともにした。「ある日、見えてしまったんです」。八木沼が明かすのは、田中とスタッフが外出していた時のこと。「伊藤さんの姿も見えないので探していたら、出かけた2人の部屋のドアが開いていて、人影が見えて。そっと、のぞいてみたら、熱心にイメージトレーニングしていたんです。曲を小さくかけながら細かいルーティンを一から確認していました」。八木沼にとっては初のシニア国際大会が、いきなり五輪。そこで見た、華やかな祭典の舞台裏は今も頭から離れない。
その五輪は5位に終わった。「東ドイツのカタリナ・ビット選手が連覇したのですが、美しさ、滑り手の芸術性がとても大切にされていた時代でした。伊藤さんも、スケーティングは滑らかでスピンも速い。でも、さらに世界のトップを狙うための武器を習得することを、この時、既に考えていたのかもしれません」。五輪を終えて別れ、シーズンオフを挟んで再会すると3回転半を習得していた。「本当に高さと幅のあるジャンプ。それまでのフィギュアスケートの方向性に、努力、忍耐、集中を重ねて大技をもたらしてくれました」。歴史が動いた。
五輪の1年1カ月後、迎えた世界選手権。10日前に開催国フランスに入った際は「これから最後の調整に入っていく状態だったと思います」。そんな伊藤の心身が、見る見るうちに仕上がっていく。この大会は同部屋ではなかったが、容易に想像できた。コンパルソリー(規定)6位、オリジナルプログラム1位の総合3位で最終日のフリーへ。89年3月18日。「この日に絶対、メダルを取る逆算をした調整を見てきたので、最後は『フェンスにぶつかりませんように…』と。それだけでした」。
世界選手権、V。男女を通じて日本人初、アジア勢でも初の金字塔を19歳の伊藤が打ち立てた。トリプルアクセルの後も圧巻。3回転のフリップ、ループ、トーループ-トーループの連続、サルコー。すべてが完璧だった。冒頭のルッツも加えた全6種の3回転ジャンプを国際大会でそろえたのも伊藤が初めて。山田満知子コーチと抱き合って涙している最中に、また沸いた。審判9人中5人が旧採点方式のテクニカル・メリット(技術点)の満点「6・0」。芸術点より出る例が少なく「5・9」点が“満点”とすら言われていた時代。異次元のスコアで頂点に立った。
その後、国際スケート連盟(ISU)公認大会における日本人女子の3回転半は、02年10月の中野友加里まで約13年7カ月、成功を待つ。05年の浅田真央、16年の紀平梨花、そして4回転時代へ-。突き抜けた先駆者だった伊藤は、八木沼にとって「お姉ちゃんであり、私たちに世界での戦い方を教えてくれた大先輩。超一流で規格外でも陰の努力は怠らない。準備から金メダルへの道筋を立て、勝ち切った姿は今でも印象に強く残っています」。日本フィギュアスケート界にとっても、あのパリの煌めきは色あせない。【木下淳】
◆八木沼純子(やぎぬま・じゅんこ)1973年(昭48)4月1日、東京都港区生まれ。5歳でスケート教室に入り、福原美和コーチの指導を受ける。品川中高から早大。表現力の高さを武器に87、88年に世界ジュニアで銀メダル。87年の全日本選手権で14歳にして2位となり、優勝した伊藤とともに88年カルガリー五輪へ。女子シングル31人中14位と健闘した。全日本は準優勝4度、3位3度、冬季ユニバーシアード大会(ポーランド・ザコパネ)金メダル。94年NHK杯で3位に入った。95年にプロ転向。「プリンスアイスワールド」のチームリーダーやディレクターを務め、現在はスポーツキャスターや解説業、明治神宮外苑アイススケート場にてインストラクターとしても活動している。157センチ。血液型B。
◆伊藤(いとう・みどり)1969年(昭44)8月13日、名古屋市生まれ。東海女子高から東海学園女子短大。3歳から始め、後に浅田真央、宇野昌磨らを指導する山田満知子コーチに師事。80年、11歳(小学5年)で全日本選手権3位。全日本は85年からの8連覇を含む女子最多9度の優勝を誇る。88年の愛知県選手権で女子史上初の3回転半に成功。国際大会では同年のNH杯が初。92年アルベールビル五輪で日本フィギュア界初の銀メダル。同年引退、95年に復帰も96年に再引退した。自国開催の98年長野五輪では聖火リレーの最終点火者を務めた。04年に日本人初の世界殿堂入り。現在は北九州アイススケートセンターを中心に指導。145センチ。血液型O。
◆連載「色あせぬ煌めき」は本日の第10回で、いったん終了します。2020-21年シーズンが本格化する秋に第2弾を連載予定。ニッカンスポーツ・コムに新設した特集ページ「Figure365(フィギュア365)」では、さまざまな企画の準備を新たに進めています。末永くお付き合いください。