開幕が迫るワールドカップ(W杯)でトライ量産が期待される日本代表WTB福岡堅樹(27=パナソニック)。50メートル5秒8のスピードスターが歩んできたキャリアは、けがとの闘いだった。支えとなったのは福岡高時代に両膝の手術を受けた「まえだ整形外科 博多ひざスポーツクリニック」院長の前田朗氏(57)。日本の翼に、選手としての飛躍のチャンス、整形外科医を目指すきっかけを与えた出会いに迫った。
2010年12月30日、大阪・花園ラグビー場第3グラウンドで行われた全国高校大会2回戦。寒風が吹くピッチの右サイドで、福岡が右膝を押さえてうずくまった。対戦した大阪朝鮮高に大きくリードを許した後半17分、50メートル5秒8の快足で、ライン際を抜けようとした時だった。タックルを受け、踏ん張ろうとした膝に、体を支えるだけの力は残っていなかった。
グラウンドドクターを務めていた前田は、その瞬間をわずか数メートル先のピッチサイドで見ていた。「だめだ」。これ以上プレーできないことはすぐに分かった。「外に出なさい」。前田の声を確認すると、福岡はおだやかな表情で、うなずいた。医務室へと続く緩やかな坂道。18歳の青年は、体を預けた前田に頭を下げた。「先生のおかげで花園のピッチに立つことができました」。前田は涙をこらえ、言葉を返した。「帰ったら手術しよう」。
右膝の前十字靱帯(じんたい)断裂-。だが、この大けがを負ったのは、この日ではない。5カ月前の7月から、いつかこんな日がくることを、2人は分かっていた。
高2の夏合宿で左膝の前十字靱帯を断裂。「リハビリをしっかりすれば前と同じスピードに戻る」という前田の言葉を励みに、福岡はもどかしい日々に耐えた。ようやくピッチに戻ったのは、最終学年の5月。だが、そのわずか2カ月後に再び悪夢が待っていた。練習で足が芝に引っかかった瞬間、今度は右膝を激痛が襲った。どうにか立ち上がったものの、膝が動くはずのない左右にぐらぐらと動いた。「やばい」。焦りの中、前田のもとに駆け込んだ。告げられたのは、前十字靱帯の断裂だった。
前田 将来を考えて、すぐに手術した方がいい。
福岡 花園のために高校3年間やってきたんです。可能性が少しでもあるのなら、やりたいです。
同学年の布巻、松島らと比べ、全国的に名の知れた存在ではなかった。祖父が開業医で父は歯科医。幼少期からの憧れである医師を目指すため、大学でラグビーを続ける意思もなかった。だからこそ、多くの高校ラガーマンと同じように「花園」がすべてだった。手術をすれば、花園予選出場は絶望的。前田は患部の状況を何度も確認し、悩んだ末に「保存療法」を提案した。手術を回避し、周囲の筋肉を補強したりすることで「しのぐ」方法。前田は包み隠さず置かれた状況を伝えた。
「確実な方法ではないし、リスクもある。ずっと綱渡りしながらゴールに向かっていくようなもの。いつ落ちるか分からない。最後までいけたらラッキーだけど、落ちたら、その時は諦めなさい。予選で負けても、花園に行けても、大会が終われば手術だからね」
福岡はその膝で、福岡県予選の準決勝から戦列に復帰し、チームが敗れた花園2回戦まで、4試合でピッチに立った。前田は言う。
「医療において精神論はリスキー。『骨は俺が拾ってやる』は絶対にだめ。保存療法をすすめられたのは、彼自身の理解度の高さと、感情で動かず、冷静な判断ができる人間だと思ったから。正直に言うと、どこまで持つのかなという感じだった。試合のたびに、今日も持つかな…持った-。その繰り返しだった」
信頼関係のもとに成り立った前田の選択。その思いが伝わっていたからこそ、再受傷した日、福岡は感謝の思いを口にした。前田は「綱から落ちた時に、ちょうど向こう岸にたどり着いたんじゃないかな」と、しみじみと当時を振り返る。
信頼する医師の支えは、福岡の未来も大きく変えた。筑波大医学群を目指した浪人中、同学年の選手が大学で活躍する姿にラグビーへの熱がこみ上げてきた。「またラグビーがしたい。ここで挑戦しなければ後悔する」。医師を将来的な夢に変え、筑波大情報学群への進学を決意した。
天性の素質が開花するのに時間はかからなかった。20歳で日本代表に初選出。15年W杯日本代表に選ばれ、大学卒業後には強豪パナソニックとプロ契約を結んだ。そして2度目のW杯へ-。医学の道に進むため、ラグビーは20年東京五輪の7人制が最後と決めている。15人制での最後の大舞台を前に、福岡はきっかけを与えてくれた前田への特別な思いを語る。
「あの時、花園のピッチに立てていなければ、今の自分は間違いなくない。前田先生が選択肢を与えてくれなければ、代表になりたいと思うこともなかった。医学の中でスポーツ整形を目指そうと思ったのも先生の影響。けがをした不安の中、この人の言うとおりにすれば戻れるという雰囲気、安心感を感じた。W杯で活躍し、いつかは前田先生のような医師になりたい」
医師として、自身と同じ医療の世界に飛び込もうとしている福岡に、前田が抱く期待も大きい。
「これからの子どもたちのためにも、彼にはラグビーと医師、2つを成し遂げてほしい。ラグビーだけ、勉強だけじゃなくていいんだって。両立じゃなく、順番にやる方法もあるんだって。今は勝手に、お父さんのような気持ちで彼が走っている姿を見ている。でも、僕は医師。何より、けがなくW杯を終えてほしい」
ラグビーと医療。運命の糸が絡みあい、日本が世界に誇るトライゲッターが生まれた。福岡は今でも膝に違和感があれば、前田のもとをたずねる。左膝の手術から10年。爆発的なスピードを生み出す両足には、1人の医師との物語が詰まっている。(敬称略)
【奥山将志】
◆福岡堅樹(ふくおか・けんき)1992年(平4)9月7日、福岡・古賀市生まれ。5歳でラグビーを始め、福岡高3年時に全国高校大会(花園)に出場。医者志望で複数の大学からの誘いを断り、1浪後に筑波大(情報学群)に進学。大学では2度の大学選手権準優勝に貢献。日本代表34キャップ。15年W杯日本代表。祖父は内科医、父は歯科医。175センチ、83キロ。