20日開幕のワールドカップ(W杯)に臨む日本代表には、チームソング「ビクトリーロード」が存在する。映画「耳をすませば」の主題歌「カントリーロード」の歌詞を、チームの歩みに変換。ムードメーカーのプロップ山本幸輝(28=ヤマハ発動機)が選曲と歌詞を担当した。W杯登録メンバーは31人。大会直前に落選した山本は、戦友たちへ思いを託した。
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8月28日、北海道・網走市。背中に「JAPAN」と記されたシャツを着た日本代表が、互いの存在を確認し合うように手拍子を始めた。先頭を切る山本の声は、わずかに震えていた。
♪ビクトリ~ロ~ド♪…
室内練習場に響く声を、続いて全員が包み込んだ。
♪この道~、ず~っと~、行けば~、最後は~、笑える日が~、来るの~さ~、ビクトリ~ロ~ド♪…
前日午後6時、宿舎内のミーティングルームに合宿参加の41人が集められた。2日後に世間へ知らされるW杯登録メンバー31人。その内部発表だった。耳をすませた山本の名が、スタッフに呼ばれることはなかった。どれだけ厳しい練習の後も円陣を作り、締めを担当する山本のかけ声で笑い合ってきた。だが、この時だけは違った。落選した10人はチームの全員と固く握手し、抱き合った。山本も整理しきれない複雑な感情を抱き、自室に向かった。
エレベーターでは居合わせた仲間から「お疲れ!」と声をかけられた。その中で33歳の堀江が言った。
「おい、幸輝。俺は何も言わへんけどな」
山本は軽く会釈をし、エレベーターを降りた。1人になったはずが、後ろを堀江がついてきた。部屋で2人きりになると、公私で慕う先輩から切り出された。
「よぉやったよ、お前。ほんまに…。よぉやった」
涙がこぼれ出た。堀江の肩を押しながら「はよ、帰ってくれ~」と強がったが、あふれるものは止まらなかった。日本の誇りを胸に抱き、何度も隣でスクラムを組んできた。いつも励まし合い、歯を食いしばって走ってきた。そんな先輩の心遣いが、うれしかった。
山本 こういうのが「家族やな」と思った。代表はいろいろなチームから集まってくる。テーマは「ONE TEAM」。それが本当にできたんだと思った。
16年に代表入りし、初めはアピールで精いっぱいだった。「最初の2年間はチームのためというより、自分のため。選手の多くがそんな感じだった」。現体制の特徴の1つが半数近い外国出身選手。そんなチームを結束させる仕掛けに歌が用いられた。15年W杯イングランド大会では、ニュージーランド出身のツイが担当。ボブ・マーリーの「バッファロー・ソルジャー」の替え歌を作っていた。
今年2月、山本は東京で行われた日本代表候補合宿に参加していた。そこで偶然目を通した記事には「山本幸輝に(曲作りを)依頼している」とあった。リーチ主将のコメントに驚き「聞いてへん!」とツッコミを入れながら「やるしかない」と奮い立った。
同部屋は15年W杯代表の三上正貴だった。ベッドに寝ころびながら「みんなで歌いやすい歌」を1週間近く考え込んだ。2人でひらめいたのが「カントリーロード」。そこに代表の歩みが重なる歌詞をつけた。2学年下の流に披露すると「2回り目、3回り目とテンポを上げましょう」と提案を受けた。本気で曲作りに向き合った理由があった。
山本 代表にリーダーグループができて、みんながすごく引っ張ってくれていた。自然と「このチームのために何かしたい」という気持ちになった。そうやって「みんなで勝ちたい」という結束力が高まり、いいチームになっていった。
選手としてW杯に出られない悔しさはある。それでも所属先の静岡に戻り、今月6日の南アフリカ戦をテレビ観戦する自分がいた。
山本 今までの自分なら多分、他の選手の活躍が悔しくて見られなかった。でも、今の日本代表は本当に応援したい気持ちになる。
網走で歌った最後の「ビクトリーロード」は複雑だった。葛藤がありながら「最後の大仕事やな」と腹を決めた。声を張った。桜のジャージーを着られず、涙した1人として伝えたい。
山本 費やしてきた時間は全然無駄じゃなかった。感謝の気持ちがある。残ったメンバーは、チームのために頑張れる人たち。何とか、結果を残してほしい。
31人には歴史を変えるチャンスがある。力強い結束がある。最後に笑える日は、必ず訪れる。【松本航】
◆山本幸輝(やまもと・こうき)1990年(平2)10月29日、滋賀・野洲市生まれ。小1で野球を始め、野洲中2年の終わりにラグビーへ転向。八幡工を経て近大。4年の最後にジュニアジャパン入り。13年にヤマハ発動機入社。16年11月アルゼンチン戦で日本代表デビュー。通算7キャップ。181センチ、118キロ。