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井上尚弥
地味に体作り、地味に栄養強化「怪物は1日にしてならず」/管理栄養士が見た進化①
明治の管理栄養士・村野あずさ氏(49)は、井上がライトフライ級で世界王座を獲得した直後の14年7月から栄養サポートを行っている。世界3階級制覇王者の長谷川穂積氏、スピードスケートの高木美帆、19年ラグビーW杯日本代表など、多くのトップアスリートを指導してきた専門家の目に、井上の強さはどのように映っているのか―。7年におよぶサポートを振り返りつつ、2つのキーワードでその進化に迫る。1つめは「怪物は1日にしてならず」。
ボクシングは柔道、レスリングなどと同様に減量が伴うスポーツだ。井上の場合は、最大で約10キロを1カ月かけて落とし、年に2~3回のペースで試合を行ってきた。試合から次の試合までの間は、練習→減量→計量→リカバリー→試合という流れ。試合前日の昼に行われる計量までの「減量」、計量後から翌日夜の試合までの「リカバリー」は、近年、井上が特に気を使っている部分でもある。
現在の井上の「栄養」への取り組みについて、村野氏は「進化がすごい」と語る。だが、サポート開始当初は、今とは大きく異なっていたという。
村野氏 ボクシングへの真摯(しんし)な姿勢は変わりませんが、20代前半の頃は、他の若い選手と同じように、朝食をとるのが苦手だったり、食事も好きな物を食べたい時に食べるといった感じで、食事や栄養に今ほど意識は向いていなかったと思います。サポートも双方向ではなく一方通行のことが多かったですし、プロテイン摂取の提案についても「体が大きくなる」というイメージと減量とのギャップで意見が合わないこともありました。
井上の中での変化は、強さを求める過程での柔軟な姿勢にあったと語る。
村野氏 井上選手は常に進化を求めており、減量苦の影響で試合中に足をつった経験や、食事改善により減量がスムーズにいった経験を重ねることで、必要性を感じ、少しずつ意識が変わっていったのかなと思います。最近も、米国でのステーキ中心の食事が体に合わず、コンディションが思うように作れなかった試合があったのですが、帰国後すぐに連絡があり、次の試合はリカバリーの食事を変えて、良いコンディションをつくることができました。今ではミネラルウオーター1つの質にも意識が向くぐらい、こだわりを持っています。階級を上げ、減量幅が少なくなったとはいえ、現在も短期間で7~8キロの減量を行っており、コンディショニングは毎試合、最も気を使う部分です。井上選手は、1試合終わるごとに試合当日のコンディション、パフォーマンスがどうだったかを分析し、少しでも気になった部分や課題が見つかると、それに対して栄養面からも相談があり、少しずつ改善を繰り返してきました。
食事改善、プロテインなどの「栄養強化」「減量」「リカバリー」。それらを練習とリンクさせ、同じ方向に向かわせることが、リング上でのパフォーマンスに良い影響を与えているのではと、村野氏は言う。
村野氏 現在の計量前後の食事はほぼ完璧と言っていいと思います。これまで、減量時の過度な水抜きや、絶食の影響で計量が終わっても胃腸にダメージが残って食べられない選手や、減量の反動で好きなものを食べ過ぎてしまう選手を何人も見てきましたが、井上選手はすべてプラン通りです。減量中は、直前まで練習中の水分補給を徹底し、体内の水分を保つことでパフォーマンスを落とさないことを意識していますし、減量食に関してもこだわっています。最近では、夕食にビタミンやミネラル、食物繊維が多く含まれたオートミールにプロテインと低脂肪牛乳、フルーツを加えて食べるなど、「量は落とすが質は落とさない」ことを意識し、自分に合った減量食を研究しています。減量がスムーズだから、リカバリーの時も試合を意識した食事ができているんだと思います。試合前の食事は特にパフォーマンスに影響を与えます。80分の競技でも、10秒の競技でも共通しているのは、いかに胃に負担のない状態で体の中にエネルギーを蓄えられるか。井上選手の場合は、計量後は炭水化物中心で脂質が少ない食事を意識し、雑炊やお餅入りのうどん、参鶏湯(サムゲタン)などを時間をかけて食べます。こういった部分は、競技を問わず、参考になると思っています。
世界王者になって7年。村野氏は、管理栄養士という立場で見た井上の強さの裏側について、「高みを目指す向上心」と「地道な努力を継続できる力」が大きいと語る。
村野氏 最近はボクシング以外の競技の選手からも、井上選手の圧倒的な強さや体のキレについて質問を受けることが増えました。そういう時に伝えているのは、あのパフォーマンスの裏に、地味な作業の積み重ねがあるということです。体作りや栄養強化は、これを食べたらとか、これを飲んだらいいという単純なものではなく、練習と一緒で少しずつ積み上げていくもの。ただ、目に見えない分、頭では分かっていても、高い志や、競技に対しての誠実な姿勢がないと継続するのは難しいんです。スケートの高木美帆選手やラグビーの松島幸太朗選手もそうですが、世界と戦っている人、成し遂げられる人に共通しているのは、少しでも今の自分を超えたいという向上心とともに、妥協せず同じことをコツコツと繰り返し、それを進化させていけること。小さなことにこだわる姿勢があるから、自分の体のわずかな変化や違和感にも気づき、それが、けがの予防につながったりもするのです。ジュニアアスリートを含め、そういう部分にも注目してもらえるといいなと思っています。
村野あずさ(むらの・あずさ)
陸上の長距離選手として実業団でも活躍。引退後に明治に入社し、プロ野球、サッカー、ラグビー、陸上など多くのトップアスリートの栄養指導を担当。19年ラグビーW杯は日本代表に帯同し、現在は井上尚弥のほか、スピードスケートの高木美帆、ラグビーの松島幸太朗、姫野和樹らを担当。著書に「『走る』ための食べ方」(実務教育出版)。