川嶋勝重
(Katsushige Kawashima)
プロ通算32勝(21KO)7敗
大橋ジムが誕生して1年がたった95年9月、ボクシング界に「奇跡の男」として名を刻む、後のWBC世界スーパーフライ級王者・川嶋勝重が入門した。ボクシング未経験の21歳。友人の試合を見たことで一念発起し、務めていた会社を辞めジムの門をたたいた。大橋会長からプロテスト受験を2度却下された不器用な男は「気合と根性」でジム初の世界王者へとのぼりつめた。その足跡は、大橋ジムの歴史そのものだった。
川嶋の入門当時、大橋ジムにはチャンピオンはおろか、日本ランカーさえ誰もいなかった。川嶋は言う。
「当時、あのジムから世界チャンピオンが出るなんて誰も思っていませんでした。僕自身、日本ランカーぐらいになれれば地元に胸を張って帰れるなという感じでしたから。ドームとか海外防衛とか…本当にすごいジムになりましたよね」
当時は、アマチュア経験のある選手が入ってきても、大成するボクサーはいなかった。プロテストに合格した川嶋への期待もゼロに等しかったという。ただ、負けず嫌いな性格と圧倒的な練習量は、川嶋を確実に成長させていった。
「特別なことを教えてもらう環境ではなかったので、とにかく自分で頭を使って工夫しようと。周りに見本がいないからこそ、どうやったら強くなるかをとことん考えました。今の選手はトレーナーを変えてくれとか、移籍したいとかすぐに言いますが、そうじゃないと僕は思っています。頭を使っていない練習に意味はないですし、周りのせいにしているようでは、上には行けないですよ」
川嶋のあふれる情熱は、結果としても表れた。98年に日本ランク入りを果たすと、02年にジム初の日本王者となる。99年にトレーナーに就任した元東洋太平洋フェザー級王者・松本好二氏との出会いも、川嶋の成長を一気に後押しした。
「松本さんが入った頃から、会長もスイッチが入ったように感じました。世界ランカーとの試合も組んでもらいましたし、日本タイトルを取った後、関係者へのあいさつ回りの車の中で『来月から月謝は払わなくていい』と言われて、初防衛した後に『世界を狙うからバイトを辞めろ』と言われたのを覚えています」
川嶋は03年6月に大橋ジム初となる世界タイトルマッチのリングに立った。相手はWBC世界バンタム級王者・徳山昌守。試合1カ月前のぎっくり腰の影響もあり、12回判定で敗れたが、試合後に大橋会長からかけられた言葉が、失意の川嶋を奮い立たせたという。
「自分としても、万全の状態でやりたかったですし、悔しい思いがあった中で、『けががなかったら勝てるか?』と聞かれたんです。『勝てます』と答えたら、『じゃあもう一度組むからな』って。世界戦をやるには当然お金も必要ですが、そんなことは一切言わず、すぐに動いてくれた。信用してくれているんだと感じましたし、会長の気持ちがすごく伝わりましたね」
04年6月、川嶋は徳山との再戦に1回KO勝ちし、悲願の世界王者となった。ボクシングを始めて9年、大橋ジムが誕生して10年目でのことだった。川嶋の世界王座獲得は、ジム隆盛の大きなきっかけとなった。
「僕が世界を取ったことで、アマチュアで実績を残した八重樫、細野、岡田らが続いてくれた。3人とは何度もキャンプにも行きましたし、彼らの大学の後輩とかが、ジムに入ってくる流れもできました。振り返ると、そこはジムに貢献できた点かなと思いますが…結局、井上尚弥にすべて持っていかれましたね(笑い)」
川嶋は3度目の防衛戦で敗れ、世界王座から陥落。その後も世界挑戦のチャンスはあったが王座に返り咲くことはできず、08年1月の試合を最後に現役を引退した。現役最後の試合後、大橋会長は報道陣を前に「川嶋は大橋ジムの歴史そのものです」と言った。16年がたち、川嶋は語る。
「会長は現役時代の試合もそうですけど、いいものを持っていても気持ちが弱い選手は好きじゃない。ボクシングはメンタルが強い人間じゃないと、上には行けないし、言い換えれば、その姿勢は練習の姿に表れるんですよ。自分で考えて考えて、勝負から逃げない選手には結果が悪くてもチャンスをくれます。そういう根性のある選手が出てきて欲しいですね」
ひるむことのないファイトスタイルで「ラストサムライ」と称された男の意思は、その背中を見て育った後輩たちに受け継がれた。