北京五輪2冠チェン「ただイライラ」の2年半を経たパリ…最後に宇野さんへメッセージ
2022年北京オリンピック(五輪)フィギュアスケート団体のメダル授与式が、夏季大会が真っ盛りのパリで8月7日に行われたのは記憶に新しいところです。
2年半前は1位だったROC(ロシア・オリンピック委員会)は、カミラ・ワリエワ(18)がドーピング違反で資格停止処分を受け3位に後退。米国が金メダル、日本が銀メダルに繰り上がりました。
学業専念のため競技会から離れているアメリカ合衆国の男子金メダリスト、ネーサン・チェン(25)も、変わらぬ精悍(せいかん)な顔つきで参加。五輪史上初めて設けられた「チャンピオンズパーク」で、冬とはまた違った熱量の歓声を浴びながら、陽光の下、エッフェル塔をバックに国歌を響かせました。非日常的な経験は、とてもエキサイティングだったそうです。
日刊スポーツ「Figure365」取材班は、授賞式の直後、日本の8選手とほぼ同時刻に、少し離れたエリアで実施された米国の合同インタビューにも密着しました。結果が分からないまま北京を離れてからの思いとは。毎週木曜掲載の「Ice Story(アイストーリー)」8月ラストは、特別編としてチェンの胸の内を余すことなくお届けします。
17分間の取材の最後、今年5月にプロ転向した宇野昌磨さん(26)へのメッセージも単独で。北京五輪2冠王者の、久々の肉声をお楽しみください。
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―授与式を振り返って
チェン アスリートとして誇りに思うよ。チームとして、この瞬間を一緒に祝うことができれば…とずっと願っていた。だから、みんなと一緒にここへ来ることができて、この瞬間を分かち合えたことは本当に素晴らしかった。
―この時期にパリへ来るため、何か予定を動かしたり、大変だったりしたことはありましたか
チェン 僕のスケジュールとピッタリ合っていたので、特に予定を動かす必要はなかったよ。家族を呼び寄せるためのロジスティックス(手配など)がほとんどだったけど、それもまた素晴らしい経験。特別なことだった。僕たちの家族は(新型コロナ禍の五輪時は)北京にいなかったので、ここで家族全員を迎えることができた。
―背後にそびえるエッフェル塔はどうですか
チェン もちろん、我々の五輪は北京で行われたもの。でも同時に自分たちは、もし夏の五輪でメダル授与式があれば、一緒にセレモニーで祝い合えうことができると願っていたし、実際、かなった。ああ、自分は何をしているんだろう、こんな素晴らしい場所で…と思いながら。
―今までで最も暖かい表彰式じゃないですか?
チェン これまでのセレモニーは、いつも凍えそうだったからね(笑い)。普段はポケットにカイロを入れているのに、今日は汗をかいた。全く違ったね。
―多くの法的な問題があり、実施が遅れました。このままではいけないと思っていましたか
チェン 正直なところ、もう次(26年)のミラノ(・コルティナダンペッツォ五輪)で実現するのかなと思っていたよ。なので、とても早い展開だったなと。その上、これほど多くのことをパリで得られたんだ。本当に幸せだ。
―知らせを受けた時はどうでしたか
チェン 当初、また延期になるというニュースがあったんだ。そんなことはないだろう…と思いながらも、確かに驚きだったよね。決まったと聞き、すぐ渡航計画を立てた。スケーターとして、チームとして喜びを分かち合える瞬間があるのであれば最高だからね。私たちは個人のアスリート。スケートは1人で滑るものだし、メダルも1人で取る。だから、こうしてチーム一丸となってトレーニングに励む瞬間の共有は、何年も競技を続け、お互いを知り尽くしているからこそできること。こうして一緒にいられるのは、本当に素晴らしいことなんだ。もちろん、韓国での銅メダル(18年平昌大会の団体戦はカナダ、OARに次ぐ3位)は特別なことだったけど、今回は明らかにゴールだったから。さらに特別なことだね。
―北京では個人だけでしたからね
チェン 北京で行われたメダル授与式は、とても異質だった。コーチやトレーナー、チームのメンバーだけがそこにいた。今日は、すぐそばに観客の皆さんがいてくれた。
―パリ五輪を楽しめていますか
チェン そうだね。実は2、3日前にここへ来ていて既に陸上競技を観戦してきた。今夜はバスケットボールを見に行こうと思っているよ。
―カナダは4位。そこにも問題を感じている人はたくさんいます。どう考えますか。銅メダリストたち(ROC)も不在でした
チェン ええ、その通り。だけど、残念ながら僕の手には負えない。法的に各団体に委ねられていて、多くの決断は私の手から離れている。力は、他のところにあるんだ。その中で自分は、メダルセレモニーをやってほしいという気持ちがずっと強かった。メダルの色も分からなかったし。でも率直に言って、それも僕たちの手には負えないことだった。アスリートとして、私たちの仕事は最高のパフォーマンスを見せること、何が起ころうとも、それしかなかった。結果、素晴らしいサポートチームのおかげで今があり、実際にパリへ来ることができた。最高の気分だよ。
―北京であなたのお母さまと少し話をした。お母さまは、あの瞬間に北京で立ち会えなかったことをとても残念がっていました
チェン そうだね。でも今、ここにいることを喜んでいるのは分かるし、家族みんなとパリにいられる。とても楽しいよ。
―あらためて、北京五輪のメダルを受賞した場所がパリになったことを、どうとらえていますか
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長野県飯田市生まれ。早大4年時にアメリカンフットボールの甲子園ボウル出場。
2004年入社。文化社会部から東北総局へ赴任し、花巻東高の大谷翔平投手や甲子園3季連続準優勝の光星学院など取材。整理部をへて13年11月からスポーツ部。
サッカー班で仙台、鹿島、東京、浦和や16年リオデジャネイロ五輪、18年W杯ロシア大会の日本代表を担当。
20年1月から五輪班。夏は東京2020大会組織委員会とフェンシング、冬は羽生結弦選手ら北京五輪のフィギュアスケートを取材。
22年4月から悲願の柔道、アメフト担当も。