鉄人が砕け散った日〈11〉筋肉の落ちたふくらはぎ、5万1600人に露呈した異変

プロボクシング4団体統一世界スーパーバンタム級王者の井上尚弥(31=大橋)が5月6日、東京ドームで元2階級制覇王者ルイス・ネリ(メキシコ)と防衛戦を行う。

同会場でのプロボクシング興行は1990年2月11日の統一世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米国)の防衛戦以来、実に34年ぶり。

「アイアン」(鉄人)の異名で史上最強と呼ばれたタイソンは、井上と同じように圧倒的な勝利で無敗のまま王座を統一したが、東京ドームで挑戦者ジェームス・ダグラス(米国)に10回KO負けした。この一戦は“世紀の大番狂わせ”として今も世界で語り継がれる。

あの時、全盛期の無敗王者にいったい何が起きていたのか。なぜ伏兵に無残な敗北を喫したのか。来日から敗戦までの27日間、タイソンに密着取材した筆者の取材ノートをもとに、34年前にタイムスリップしてタイソンの鉄人神話崩壊までをたどる。

第10回は「筋肉の落ちたふくらはぎ、5万1600人に露呈した異変」(敬称略)

ボクシング

5・6東京ドーム興行に向けて、井上が「ノーモア・タイソン」と意識する「世紀の大番狂わせ」―34年前を週2回連載で振り返ります

34年と2カ月前

1990年(平2)2月11日、王者マイクと挑戦者ダグラスの統一世界ヘビー級タイトルマッチが行われる東京ドーム周辺は、どんよりと重たい、不思議な空気に包まれた。

この日、都内は朝から分厚い雨雲に覆われた。

北上する低気圧に南風が吹き込んだ影響で、昼ごろには気温が16度まで上昇。季節外れの生温かな風が吹いていた。

何かいつもと違う。

私はそんな予感めいたものを感じていた。

東京ドームのタイソンの防衛戦は5万1600人の大観衆で埋まった(1990年2月11日)

東京ドームのタイソンの防衛戦は5万1600人の大観衆で埋まった(1990年2月11日)

米国の夜に合わせて、タイソンの試合開始は午後0時30分に設定されていた。

チケット料金が2年前の1・5倍、15万円に値上げされた最前列から人が埋まっていく。

今回の興行収入は入場料、テレビ放映権料、広告料など合わせて約20億円。1日に限った興行では日本最高額だった。

プロモーターのドン・キングによると、タイソンのファイトマネーは900万ドル(当時約13億5000万円)で、ダグラスが100万ドル(約1億4500万円)。両者で計1000万ドル(約14億5000万円)に達したという。

私の記者席は前から3列目だった。

周囲を見わたすと、5階級制覇王者のシュガー・レイ・レナード、横綱千代の富士、中継局の日本テレビでゲスト解説を務めるプロ野球元巨人監督の長嶋茂雄、俳優の若山富三郎ら著名なスポーツ選手やタレントがリングサイドに顔をそろえていた。

タイソンの東京ドーム防衛戦を米国のテレビで解説したシュガー・レイ・レナード(1990年2月11日)

タイソンの東京ドーム防衛戦を米国のテレビで解説したシュガー・レイ・レナード(1990年2月11日)

タイソンの東京ドーム防衛戦を観戦する横綱千代の富士(1990年2月11日)

タイソンの東京ドーム防衛戦を観戦する横綱千代の富士(1990年2月11日)

リングを挟んで私の向かい側の席には、WBC世界ストロー級(現ミニマム)級王者の大橋秀行(ヨネクラ)がいた。

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1988年入社。ボクシング、プロレス、夏冬五輪、テニス、F1、サッカーなど幅広いスポーツを取材。有森裕子、高橋尚子、岡田武史、フィリップ・トルシエらを番記者として担当。
五輪は1992年アルベールビル冬季大会、1996年アトランタ大会を現地取材。
2008年北京大会、2012年ロンドン大会は統括デスク。
サッカーは現場キャップとして1998年W杯フランス大会、2002年同日韓大会を取材。
東京五輪・パラリンピックでは担当委員。