殿堂入り名審判の故・谷村友一さん、プロ・アマ垣根越え尽力 生前に顕彰ならず悔い/寺尾で候
<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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空が青く澄んだ新春の京都にふさわしい華やかな宴が催された。24年に特別表彰で殿堂入りした名審判、故・谷村友一の「野球殿堂入り記念祝賀会」だった。
プロ・アマの垣根を越えて球界に尽力した1人。同志社大を卒業後、極東商事(現三菱商事)に入社、52年に京都クラブの二塁手として都市対抗に出場した。
一般企業に勤務しながら高校、大学、社会人の審判員を続けた。58年夏の甲子園大会で延長18回引き分け、徳島商対魚津の伝説の一戦で三塁塁審を務めている。
戦後間もない復興期だった青春時代の谷村を知る貴重な人物がいる。関西六大学リーグのライバル、神戸大二塁手だった3歳年下の三好一彦。後に阪神球団社長の座に就いた。
「谷村さんはお手本のような存在で、いつも見習ったものです。守備は前へのダッシュも危なげなく、堅実でした。当時は右投げ左打ちは珍しかった。広角打法でね。キャプテンで秋のリーグ戦優勝を置き土産に卒業しました。そのあと吉田(義男)が鳴り物入りで立命大に入ってくるんです」
59年にセ・リーグに入局し、通算3026試合に出場。73年、巨人がV9を決めた阪神との最終戦(甲子園)の球審では、虎ファンが
乱入して騒然となったが平然とジャッジした。
神戸大ではキャプテンで、阪神電鉄に入社した三好は、後に筆頭専務にまでのし上がった。野球通でもあったことから、長きにわたってグループ内の球団とは密接にかかわってきた。
「谷村さんはいつも厳然とした態度でコールしました。学生時代は二塁手ですから、ピッチャーにボールを返すときはサイドスローでした。それに選手ともめたシーンを見たことがありません」
違う道を歩いた2人が再会したのは、三好が球団社長に就任した1991年だった。すでに現場を退いていた谷村だが、指導員として甲子園での阪神戦を毎試合訪れた。
だが三好は「向こうは(審判として)裁く側、こちら(阪神)は裁かれる側。わたしがあいさつしたのは社長になったときの1度だけでした」という。
甲子園のネット裏ブースでも、球団幹部の三好と審判のブースは隣同士だった。ガラス越しに黙礼するだけで、一言も会話を交わすことはない。お互いが立場を尊重し、それぞれが“筋”を通したわけだ。
久しぶりに2人が会話をしたのは、谷村がセ・リーグを対局した1996年のこと。10月9日、シーズン最終の中日戦に、三好はいつものようにブースに入った。
するとラストゲームの甲子園入りした谷村がやって来た。三好に退任のあいさつをするためだった。今まで無言を貫いたが、谷村からの別れのあいさつに、後輩の三好も丁寧に応じてみせた。
「こちらも『長い間、ご苦労さまでした』とご挨拶すると、谷村さんのほうから『記念写真を撮らせてください』とおっしゃった。それで2人がカメラに収まったのです」
22年7月、谷村は亡くなっている。いつも悔いることだが、できれば生前に顕彰の誉れにあずかっていただきたいものだ。殿堂入り祝賀会には、94歳になった三好の姿もあった。(敬称略)