【開場100年】焼きそば、発砲事件、板東英二…甲子園とわたし/物語のあるデータ

開場から100周年を迎えた夏の甲子園は、京都国際の初優勝で幕を閉じました。長い歴史の中、数々の記録が生まれ、中にはもう破れないだろう数字も。例えば40回大会(1958年)で徳島商の板東英二が記録した最多三振83はその1つです。目いっぱいの力で投げこむ姿は、私の記憶に残っています。一方で、忘れられない事件も…区切りの年に、そんな記録、事件を改めて呼び戻してみました。

高校野球

■現認…小3にはつまらない試合

66年が経過しても、その記録は色あせない。板東が奪った1大会83三振だ。

6試合、62イニングを1人で投げ抜き、積み上げた。私が目の当たりにしたのはそのうちの25。準々決勝、魚津(富山)戦だった。

延長18回、両軍無得点のまま引き分けた試合だ。

当時、まだ小学3年生だった。父親に連れられ初めて訪れた甲子園、陣どったのは一塁側内野席の上段。ナイターになって、グラウンドが浮き上がったように見えたのを覚えている。

0が計36も並んだ。点が入らず、小学生にはつまらない試合だった。実は三振が25を数えたことも、板東という名前もその時点では知らなかった。

数年後、巨人-中日戦をテレビ観戦した際、父親に「中日のこの投手、覚えているか」と聞かれ、あの徳島商のエースだったと知らされた。

169センチ、66キロ。当時の週刊朝日増刊号にある板東の身長、体重だ。今の時代なら「小さな大投手」と騒がれそうだが、この大会では目立っていない。

背番号1を見ると、160センチ台が14人、170センチ台が31人。180センチ台はたった2人だけ。今となっては貴重なガイドブックで、値段は40円だった。

■「とらんと走らされるんですよ」

100回大会(2018年)を前に、過去を振り返る連載が企画された。タレントに転身していた元エースをテレビ局の楽屋に訪ねた。

本文残り73% (1576文字/2161文字)

徳島・吉野川市出身。1974年入社。
プロ野球、アマチュア野球と幅広く取材を続けてきた。シーズンオフには、だじゃれを駆使しながら意外なデータやエピソードを紹介する連載「ヨネちゃんのおシャレ野球学」を執筆。
春夏甲子園ではコラム「ヨネタニーズ・ファイル」を担当した。