【ブルーペナント〈4〉】堂安律 恩師の願いはバロンドール「そこ狙うしかないやん」

日本代表MF堂安律(25=フライブルク)の小学生時代、西宮少年サッカースクール(SS)で指導した早野陽コーチ(40)は、堂安がチームを巣立った後も深い交流を続けてきた指導者である。その付き合いは「選手とコーチ」の枠を大きく超えたものであり、お互いが「誰よりも自分のことを知っている」と感じるまでの関係。

今回は、その交流から見えてくる堂安の成長を追う。

サッカー

西宮SSで最初に出会った「チャラいコーチ」

自身も西宮SSでプレーした早野氏が、コーチをしていた父の潤さん(72)から指導者としての打診を受けたのは、大学卒業後に複数の職業を経験した25歳の時だった。

コーチとして初めて担当することになったのが4年生。そこに近隣の尼崎市で活動する浦風FCから入ってきたのが、堂安だった。

サッカークラブで出会っているので、コーチと選手という関係でその関係はスタートした。小4であれば、選手がコーチに敬語を使うことは少なく、友達のように接する年代。その中でも8歳上の長男・麿(まろ)さん、3歳上の憂さんと暮らす律少年は、年上との関係づくりがスムーズだったという。

日本代表MF堂安律(右)と小学生時代の早野陽コーチ(写真提供・早野陽さん)

日本代表MF堂安律(右)と小学生時代の早野陽コーチ(写真提供・早野陽さん)

「律は一番上のお兄ちゃんと結構離れていたから、付き合い方がうまかったんですよ。ちょっとませてたっていうか。『彼女いんの?』とか、そういったことをグイグイ聞いてきましたよ(笑い)」

当時、外見もワイルドだったという早野氏は、自身のことを「結構チャラチャラしていた」と振り返る。「律は僕に対して、そういう“におい”を感じたんやと思います」。堂安はピッチで見せるドリブルのように、早野氏にどんどん仕掛けていった。

年は離れていたが、早野氏は彼女のことを聞かれれば隠すことなく答え、堂安が通う小学校の女子の話も聞いた。合宿では消灯時間を決めて、コーチが選手を寝かして回ることが多いが、早野コーチとの合宿は、夜中まで起きていても怒られなかった。それどころか、若いコーチは自らゲーム機を持ち込んで、選手と戦い続けることも。そんなキャラクターが、堂安を引きつけた。

「今思えば、律が出会ってきたコーチの中では、それまでと全然違うパターンだったんやろうなと思いますね」

怒られそうなことを許してくれるどころか、一緒につき合ってくれるお兄さんコーチ。そんな関係だったからこそ、付き合いが現在にまでつながった。

U-24日本代表合宿での堂安(2021年7月7日撮影)

U-24日本代表合宿での堂安(2021年7月7日撮影)

「僕らが打ち解けてるのは、そういうところなんですよね。取材を受ける時には、サッカーの部分での話を聞かれることが多いんですけど、僕と律の関係性って、ほんまにサッカーじゃないんですよ。プライベートについての会話で続いてきた関係。だから、それなしに話をするのは違うと思ってます。僕は律のことを知っていますし、律は僕のことをたぶん全部知ってますから」

小学生に対して全てをさらけ出したコーチと、どんどん距離を詰めていった選手。お互いが全てを知っているとまで言いきれる関係は、こうして始まった。

頻度は落ちるも見守り続けたG大阪アカデミー時代

堂安が西宮SSからガンバ大阪ジュニアユースに進んでからプロになるまでは、いわゆる“普通の”関係に近いものになった。

LINE(ライン)でやりとりすることはあったが、ずっと一緒というわけではなく、お互いの環境を乱さない程度にやりとりを重ねた。

ここでも内容は「サッカーのことばかりということはなかった」と早野氏は振り返る。

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スポーツ

永田淳Jun Nagata

Aichi

1980年(昭55)9月9日、愛知県生まれ。小3でサッカーを始める。法大卒業後、商社、フリーランスのサッカーライター、商社、外資系半導体メーカーでの勤務をへて、23年4月に日刊スポーツ新聞西日本に入社。日本サッカー協会B級ライセンス保有。日本アンプティサッカー協会技術委員長。X(旧ツイッター)は@j_nagata