日本代表DF槙野智章(31=浦和レッズ)が、サッカー人生の1つの集大成と位置づけるワールドカップ(W杯)が迫ってきた。3兄弟の末っ子に生まれ、兄とボールを追いかける中で社交的な性格と負けず嫌いな姿勢が培われた。代表でも明るいムードメーカーぶりが目立つが、W杯出場を勝ち取るまでには挫折と努力があった。笑顔の裏で歯を食いしばり、つかんだ日の丸のユニホームを着て、ロシアのピッチに立つ。

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 メンバーが発表された5月31日、槙野は自身のインスタグラムを更新した。「遠回りしてたくさん色んな経験をしてきた。こんなサッカー人生も自分らしくていい。ようやくスタート地点に立った」。10年南アフリカ大会の落選に続き、14年ブラジル大会も直前でメンバー漏れした。バックアップメンバーに選ばれたが、同行しなかった。悔しさを4年後にぶつける覚悟だった。今年で31歳。ロシア大会は自分にチャンスがある最後のW杯だと言い続けてきた。ついにつかんだ。

 ハリルジャパンでも常連だったが、ベンチを温める時間がほとんど。それでも「先発でなくともチームのためにできることはある」と、移動バスや宿舎でアップテンポの曲をスピーカーに流して周囲を和ませた。自身も笑みを浮かべる裏側で、昨年6月から半年がかりで出力強化のトレーニングを開始。90分間全力を出し続けられる体を手に入れた。同年10月のニュージーランド戦から持ち味の空中戦と球際の強さを発揮。ムードメーカーはそのままに、主力組まで駆け上がった。

 2歳上と5歳上に2人の兄がいる。幼少期から兄たちに連れられ、年上に交ざってボールを蹴るのが日常だった。昨年まで企業クラブでプレーしていた長男の伸一(のぶかず)さん(35)は「サッカーは本気でしたから、容赦なく体をぶつけたりしていました」と懐かしそうに振り返る。吹っ飛ばされて、悔しくて、立ち上がってまた向かっていく。その繰り返しが槙野の根性の原点だ。小1の運動会では2日前に腕を骨折してギプスをつけたまま、医師の制止を聞かずに徒競走に出て断然の1位。サンフレッチェ広島ユース時代は高1で飛び級で大会メンバーに選ばれて優勝するも、出番がなく悔し泣きした。明るい笑顔の根底に、負けん気が染みついている。

 10年に広島からケルン(現ドイツ2部)に移籍した。公式戦出場は2シーズンで8試合。攻撃的DFという自身の長所を生かせない戦術をチームがとる中で苦しみ、ドイツメディアからの批判にもさらされた。街の和食屋で悔し涙を流しながら、必死に寿司を胃袋に詰め込んだ。母令子さん(59)は「ドイツ語の勉強に使っていたノートが真っ黒になっているのを見て驚いた」と明かす。片言のドイツ語でも声を張り上げて下部チームの試合にも出場し、陸上選手のようにしなやかだった体をより強くする必要性に気づいた。あれから8年、外国人選手にも当たり負けしない。周囲から挫折として見られる経験も、すべて糧にしてきた。

 18年元日。例年と同じように広島に帰省していた槙野は、朝食を終えると近くのホテルに向かった。知り合いに頼み込んでジムを開けてもらい、1人走り込んで汗をかいた。「特に海外に挑戦している選手は、練習以外の多くの時間をサッカーに費やしている」。多くの友人に会える貴重な機会だが、特別な年を迎えて高まる思いが槙野を突き動かした。23年間の競技生活を体現する舞台。「夢」と語っていたW杯が、もうすぐやってくる。【岡崎悠利】(おわり)

 ◆槙野智章(まきの・ともあき)1987年(昭62)5月11日生まれ、広島県出身。00年に広島ジュニアユースに加入、03年ユース昇格、06年トップチーム昇格。10年12月にケルンへ移籍、12年1月に浦和へ加入。日本代表は10年1月のアジア杯最終予選のイエメン戦で初出場。昨年11月のブラジル戦で同国から得点した初の日本人DFとなった。国際Aマッチ31試合4得点。182センチ、74キロ。

13年、左から長男伸一さん、次男哲人さん、三男の槙野智章
13年、左から長男伸一さん、次男哲人さん、三男の槙野智章