将来あるみきの強行出場 賛成出来ない
98年長野五輪女子スピードスケート500メートル銅メダルで、5度の五輪に出場した岡崎朋美の観戦記「朋美 in ソチ」が今日9日から始まります。第1回は母として出場を逃したソチの開会式を観客席から見守って、感じたこと、思ったことを本紙に語ります。大会期間中はスピードスケートを中心に観戦記も執筆します。
4年後、もう1度五輪に挑戦したい-。初めて観客席から開会式を見て、そう感じました。小笠原さんの姿に、旗手を務めた前回バンクーバーの光景がはっきりとよみがえる。私は目立つことが好きなんで、旗手として先頭を歩いたことは、本当にうれしかったんです。今回も出たかったし、みんなと一緒に騒ぎたかったな。
子供のころに五輪の記憶はありません。高校時代は無名でしたし、五輪は遠い存在で、出るなんて思いもしませんでした。その後、縁あって富士急に入り、尊敬する橋本聖子さんと一緒に練習をすることがうれしくて、ただ必死で背中を追った。すると入社3年目。くしくもケガで欠場した聖子さんの繰り上げで初めてW杯に出場できたのです。以来、また世界に行きたいと、練習も工夫するようになっていきました。
五輪が明確な目標になったのは92年アルベールビル大会。応援に行かせてもらって、目の前で聖子さんの銅メダルを見た。銅メダリストの井上純一さん、島崎京子さんら同級生、白幡圭史さんら2歳下の選手が出場していたことも刺激になりました。同じ人間なんだから、やればできる-。そこからはさらに意識も高まり、国内では負けなくなっていきました。
94年リレハンメル大会は、聖子さんとともに出ることが目標でした。98年長野大会は2年前に内定をもらい、義務としてメダルを取りに行き銅を取れました。ただメダルで満足はできなかった。心の中は五輪中毒にかかっていたのです。毎年ある世界大会に欠場する選手はいますが、4年に1度の五輪は誰もが目の色を変えます。手抜きなしのガチンコ勝負。トップ同士の緊張感あふれたヒリヒリとした戦いが忘れられなくなったのです。
アスリートにとって魔力を持つ五輪。ただ、今回のモーグルの伊藤みき選手の強行出場に関しては賛成できません。右膝前十字靱帯(じんたい)損傷、全治8カ月の大ケガ。五輪直前の不運であきらめきれない気持ちは分かりますが、将来を考えれば、初めから欠場するべきでした。まだ26歳で先は長い。ここで将来の可能性まで閉ざすような危険を冒すことはなかった。
長女の杏珠(3)とソチに来たかった思いは今でも強い。杏珠はまだ分かってないのか「ママ頑張ってね」と言うから「スケートではなく、観戦記で頑張るよ」とは言ってきました。「ママで五輪」は逃しましたが、挑戦したことに後悔はありません。結婚、出産で、やりたいことを断念することはおかしい。競技をやりたいならとことんまでやるべき。世界では当たり前のことが、日本でもそうなるよう、これから微力ながら力を注いでいきたいです。【岡崎朋美】
◆岡崎朋美(おかざき・ともみ)1971年(昭46)9月7日、北海道斜里郡清里町生まれ。小3でスケートを始める。清里中から釧路星園高へ。90年3月に富士急に入社。98年長野五輪女子500メートルで銅メダルを獲得。主将を務めた06年トリノ五輪は4位。日本女子史上最多となる五輪5大会連続出場。W杯でも日本女子最多の通算12勝。07年に結婚。10年12月に長女杏珠(あんじゅ)ちゃん(3)が誕生。163センチ。
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