神港学園・北原光広前監督「熱い気持ちが今なお」阪神淡路大震災きっかけ…退任後もボランティア
神港学園(兵庫)硬式野球部の北原光広前監督(71)は、今年の1月も神戸市中央区の東遊園地に足を運んだ。「阪神淡路大震災1・17のつどい」に備え、15日に現地へ。2003年に野球部員とともに、竹灯籠の設営ボランティアを始めた。鎮魂の思いを込め、今年も重い竹を運んだ。
大震災が起きた95年の第67回選抜大会で、神港学園を率いて8強に進出。18年3月末の退任後、長男の直也監督(45)がチームを預かり、設営ボランティアも引き継いだ。現役部員たちと行動をともにすることはなくなったが、前監督は「これからも体が動く限り」と東遊園地に通い続ける。
6434人が亡くなった大震災。甲子園の所在地、兵庫・西宮市も被災し、センバツの開催は危ぶまれた。親族や友人を亡くし、日常を失った被災者は、日々を送ることで精いっぱい。センバツ開催を望む声など、果たしてあがってくるのだろうか。主催者は自問自答を続け、声を大にして開催を訴える関係者はいなかった。そんな中で、センバツ開催を望む声をあげたのが北原前監督だった。
心の中では「現地の感情を考えたら、大会はやってはいけないと思っていました。まわりの状況からも、開催が許されるはずもないと。開催しても応援していただけるとは思っていなかったので」と感じていた。神港学園も震災で生徒を失った。北原前監督のまわりでも、悲しい関連死もあった。被災地の現状を知る指導者が、批判も覚悟の上で声をあげた。
「子どもたちには甲子園に出る夢がある。そして(出場する)32校の監督さんにも、大きな夢がありましたから」。夢を失うことが生徒の行く末にどれほどの影響を与えるか。指導者として見過ごせなかった。相反する感情で、心身ともにくたくたになった。
「大会をやっているときは、まわりの目が気になりました。終わってみて初めて、開催されてよかったと思えた。結果として意味のある、意義のある大会だったと思いますが、よく開催まで持っていけたなという思いはありますね」と被災センバツを思い起こす。30年がたち、当時の生徒たちが歩いてきた道のりに大会の意義を実感する。
95年春がきっかけとなり「ボの字も知らなかった」人が、各地のボランティア活動に従事するようになった。97年1月には、座礁したタンカーから流れた重油の回収を手伝いに、95年センバツにともに兵庫から選ばれた育英、報徳学園と福井県へ。04年7月は福井県、09年8月は兵庫・佐用町で豪雨被害後の清掃作業などに携わった。11年5月に、東日本大震災で被災した大船渡(岩手)野球部を神戸市に招待。復興した町を見せ、東北復興への希望にしてもらいたい、その一心だった。
「あのときの熱い気持ちが今なお続いている」という。鎮魂の祈りが、終わることはない。【堀まどか】
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