[ 2014年1月21日13時30分
紙面から ]W杯第8戦
1回目に104メートルを飛んだ高梨(撮影・井上学)<連載:高梨沙羅
初代女王のプレリュード第1回>
高梨は、女子ジャンプが五輪の種目に採用されたのに合わせるように成長曲線を描いてきた。09年3月の国際大会デビューからの道のりを連載「初代女王へのプレリュード」で振り返る。
世界の「ベイビー」が誕生した-。09年8月。高梨は、全日本スキー連盟の夏の海外遠征メンバーに初めて名を連ねた。まだ中学生になったばかりで、身長は150センチにも満たない。現在、国際スキー連盟のジャンプ女子の運営責任者を務める吉田千賀氏が「日本チームは随分、小さな子を連れてきたと思った」と後に高梨の両親に語ったほど驚かれたが、そのあどけない少女を歓迎したのは他ならぬ世界だった。
初の海外での試合は、ドイツで行われた当時の女子の最高峰の大会コンチネンタル杯だった。1回目に62・5メートル、2回目に63メートルを飛び11位に入った。緊張し、力を出せなくても不思議ではない状況下で、日本勢3位。いきなりの結果に、海外勢が「ベイビー、ベイビー」と呼び、周囲に集まってきた。今でこそ日本でも「沙羅ちゃん」を知らない人はいなくなったが、日本よりもずっと先に世界が高梨を認めていた。
もちろん、かわいさだけじゃない。その遠征で7戦中4戦でシングル順位を記録し個人総合は11位。まだ粗削りだったとはいえ、低い助走姿勢から飛び出すと瞬時に空中姿勢を作る高い技術は、当時から注目されていた。
13歳で大人に交じって約1カ月の海外遠征。おくするどころか「いろんな国の言葉が飛び交っていて、これが世界なんだと思った」。すでに海外が戦うべき場所だと認識していたように、1度の遠征で心の強さを身につけた。当時、全日本スキー連盟女子コーチを務めた渡瀬弥太郎氏は「学習能力が高いし、気持ちが強い」と評価していた。
高梨は、その半年前の09年3月に札幌・宮の森で行われたコンチネンタル杯で国際大会デビューを果たした。渡瀬氏は、高梨の両親に「予選も通らないかもしれないけど、出してみよう」と半信半疑で送り出したが、結果は19位と予想をはるかに上回った。
実は高梨はこのデビュー戦から今まで、世界で1度も予選落ちどころか、2回目に進めなかったことがない。常に周囲が考えるより先の答えを出す。その強さの礎は、どこにあるのか?
それは紛れもなく、幼少期から指導してくれる父寛也さん(46)と作り上げてきたものだ。(つづく)このニュースの写真