[ 2014年1月27日14時11分
紙面から ]<連載:高梨沙羅
初代女王のプレリュード第7回>
11年4月にジャンプ女子が、ソチ五輪での新種目に採用されると、11-12年シーズンにはW杯が新設された。高梨は男女を通じて史上最年少でW杯代表に選ばれ、五輪への真の戦いをスタートさせた。序盤は5位、17位と好成績は残せなかったが、12年1月8日のヒンターツァルテン大会(ドイツ)で、1回目4位から2回目に順位を上げて2位と、日本女子で初めて表彰台に立った。直後の冬季ユース五輪(インスブルック)では金メダル獲得と勢いは増した。
3月のW杯蔵王大会では、男子を含めてW杯ジャンプ史上最年少(15歳4カ月)で優勝するなど、W杯14戦中8戦の出場で個人総合3位に入るまでに躍進。欧州のコーチ勢から「間違いなくソチでのメダル候補」と言われるほど一気に階段を駆け上がった。
シーズン途中には大きな決断もした。進学先に北海道・旭川にあるグレースマウンテン・インターナショナル・スクールを選んだ。海外遠征のたびに語学力の必要性を痛感していたことと、練習環境を変えず自宅から通学できることが理由だった。競技のために、スキー部のある高校に進学するという「慣例」にとらわれなかった。誰に勧められたわけでもない。同校の存在を知り1人で決めた。中学3年で自分の歩く道をしっかりと描いていた。
一見順調そうに見えた競技生活だが、代償は大きかった。翌12-13年シーズンに、それは露呈することになる。【松末守司】(つづく)