[ 2014年1月28日14時12分

 紙面から ]<連載:高梨沙羅

 初代女王のプレリュード第8回>

 W杯が初開催された11~12年シーズンは、個人総合3位で終えたが、高梨の足は悲鳴をあげていた。誰よりも遠くへ飛ぶ一方で、着地に相当な衝撃がかかり足への負担は大きく、かなりの代償を払っていた。当時、中3で成長期に伴い、この頃から両脚のすねの痛みが悪化し、足を前後に開いて着地するテレマーク姿勢ができなくなっていた。電波治療器、おきゅうなどのケアをしながら乗り切ったが、新たなシーズンでも終盤に再び痛みが襲った。

 12~13年シーズンは、ルールが改正され、ジャンプスーツがよりタイトなものになり、浮力を得られず高い技術が求められるようになったが、夏のGPで個人総合優勝するなど好スタートを切った。冬に入ってもライバルのサラ・ヘンドリクソン(米国)が、膝をケガしたこともあり、W杯開幕戦を制すると2度目となる2月の世界選手権(イタリア)までに8勝を積み上げ、初の個人総合Vを決めた。それでも、「サラはきっと調子を合わせてくる」と常に警戒してきたが、それが現実のものとなる。

 激戦を積み重ねたことですでにテレマークを入れることはできなくなっていた。皮肉にも高梨の予言が的中するかのように、ライバルはどんどん調子を上げてきた。結局、金メダル確実と言われた世界選手権で、精密機械のように確実に着地を決めたヘンドリクソンに圧倒され、2位。「サラはさすが。どんな時でもテレマークを入れる」と肩を落とした。

 残りのW杯2戦でも連続2位とライバルの後塵(こうじん)を拝した。最終戦後の表彰式で女王の証しであるクリスタルトロフィーを手にしたが、足を引きずる痛々しい姿がそこにはあった。まるで、敗者のようでもあった。女王の座にはついた。ただ、終盤は遠くに飛んでも飛型点で負けた。永遠のライバル、ヘンドリクソンが、立ちはだかり続けた。【松末守司】(つづく)