ハリルジャパンのボランチを務める鹿島MF柴崎岳(23)はなぜ、瞬時に周りを見渡し、広い視野から針の穴をも通すピンポイントパスを繰り出すことができるのか。秘密の一端を探りに、出身地の青森・野辺地町に行ってきた。

ハリルジャパンのボランチを務める鹿島MF柴崎
ハリルジャパンのボランチを務める鹿島MF柴崎

 新青森駅を降り立ち、レンタカーを借りて国道4号を東の方向に1時間ほど走ると、左手に青く光る海が目に入ってきた。野辺地町は下北半島の付け根に位置し、下北、八戸、青森をつなぐ交通の要衝。そして北側には陸奥湾が広がる港町でもある。ここが、今やサッカー日本代表を支えるボランチが育った場所か。まずは町立歴史民俗資料館で歴史を調べてみた。

野辺地町観光物産PRセンター内の柴崎スペース
野辺地町観光物産PRセンター内の柴崎スペース

 迎えてくれた駒井知広専門員(61)が重要なヒントをくれた。

 駒井専門員 戊辰(ぼしん)戦争に端を発した野辺地戦争が1868年にありました。旧政府についた盛岡藩(南部氏)と新政府についた弘前藩が、野辺地で戦いました。今でも当時の名残で、国道4号沿いには「藩境」を示す塚があり、県の史跡に指定されています。

 南部と津軽の抗争は戦国時代後期までさかのぼる。当時は現在の青森・岩手両県の多くを南部氏が領有していた。南部の家臣だった大浦氏が武力で津軽地方を押さえ、豊臣秀吉から所領の許可を得て津軽氏と名を改めて、弘前藩の祖となった。南部氏が結果的に領土を奪われた形になってしまった。

 以降、両藩は衝突を繰り返し、野辺地の民は常に緊張を強いられた。まるで、攻撃と守備に目まぐるしく動くボランチのように。

 駒井専門員 野辺地は両藩の境であったため、昔から常に対外的にアンテナを張っておく必要がありました。

 やはりそうか。「藩境」を体感するため、資料館から再び国道4号に戻り車を走らせた。旧南部藩の野辺地と、旧津軽藩の平内の町境にある駐車場の脇道を海辺の方に下がっていくと、突然「藩境塚」が現れた。直径約10メートル、高さ約3・5メートルのこんもりと盛られた塚が、かつて川であった溝を境に2つずつ、計4つもそびえ立っていた。関所が設けられ、お互いを監視していたのだ。偶然にも所在地は「柴崎」だった。

かつて川が流れていた藩境
かつて川が流れていた藩境
藩境塚を説明する案内板
藩境塚を説明する案内板
藩境塚を示す案内板
藩境塚を示す案内板
陸奥湾側から見た4つの藩境塚
陸奥湾側から見た4つの藩境塚

 ここで、柴崎の恩師に話を聞こう。青森山田の黒田剛監督(45)だ。

 黒田監督 初めて見たのは小6の頃でした。周りを見る力にたけてて、判断をかえることができる。背筋を伸ばしてプレーしていました。ドリブルや守備は教えて伸びますが、視野の広さは教えて身に付くものではありません。当時からボールは間接視野で見るものと考えていたのか、彼のプレー写真でボールを見ているシーンはありません。

 柴崎は青森山田中に入学するまで、12年間野辺地で生まれ育った。黒田監督に初めて会った時には、すでに「視野の広さ」を身に付けていたというわけか。

07年、プリンスリーグでの青森山田・柴崎(左)
07年、プリンスリーグでの青森山田・柴崎(左)

 もう1度、野辺地に戻る。駒井専門員はこんな話もしてくれた。

 駒井専門員 「北前船」の寄港地として栄えたため、相場を読んで情報を収集する必要がありました。

 「北前船」とは、江戸時代から明治時代にかけて、北方交易で活躍した船のこと。野辺地からは南部産の大豆や下北産の昆布などが送り出された。現在はホタテ養殖が主産業だ。野辺地湊には、現存する国内最古の「常夜燈」がある。日本海航路の窓口としてにぎわい、夜間入港する船への目印として、当時は毎晩、火がともされていた。一説によると「~だから」を意味する南部弁の「~だすけ」は、北前船が大阪から一緒に運んできた関西弁の「~さかい」が変形したものだとも言われている。

港町を光で照らしていた常夜燈
港町を光で照らしていた常夜燈

 藩境、そして港町。野辺地は生死や損得を分かつ情報が飛び交っていた歴史を持つ。その土地柄で育まれた、広い視野から放たれる正確なパス。高2の選手権準優勝から鹿島入団、そして日本代表へ。野辺地から羽ばたいた柴崎の視線の先には、W杯という名の世界が広がっている。【高橋洋平】

 ◆野辺地町 総面積は81・68平方キロメートル。人口は1万3431人(15年4月末現在)。名産は、ほたて・長いも・葉つき小かぶ。郷土料理は茶がゆ、けいらん、ホタテみそ貝焼き、ナマコ料理が有名。主な観光名所は藩境塚、野辺地戦争戦死者の墓所、常夜燈。夏は陸奥湾に面した十符ケ浦海水浴場がにぎわう。主な有名人は元スキージャンプの一戸剛。