演技が終盤にさしかかった時だった。白のコスチュームをまとった筋肉質の体が宙を舞った。後ろ向きに左足で踏み切り、そのままきれいに宙返りして左足で着氷。満員の客席は騒然とし、直後に歓声と拍手が湧き起こった。98年2月20日、長野五輪女子シングルのフリー演技。スルヤ・ボナリー(当時24=フランス)は、危険として国際スケート連盟が公式試合で禁じる「バックフリップ(後方宙返り)」をプログラムに組み込んだ。
演技を終えると審判に背を向け、客席に向かってポーズを取った。「勝てないことは分かっていた。やれることをやっただけ。私は審判よりも観客にスケートを楽しんでほしかった」。大会ただ1人の黒人スケーターの乾いた笑顔。2日前のショートプログラム(SP)では大きなミスがなかったのに6位にとどまり、「もう慣れたし、泣き疲れた。自分の滑りには満足しているけど、得点はいつも通り」と心情を吐き出していた。減点覚悟の禁止技にミスも重なり、総合10位に沈んだ。
アフリカ大陸の東方、インド洋上のフランス海外県レユニオン生まれ。実の両親を知らず、生後3カ月でフランス人夫婦の養子になった。養母が体操指導者で、体操のジュニア世界一からフィギュアに転向。天性の身体能力で頭角を現した。91年世界選手権では女子で初めて4回転を跳ぶ。伊藤みどりのトリプルアクセルが革命とされた時代。しかし、回転不足と判断され、芸術性に欠けるという評価から5位に終わった。
欧州ではV5を果たすなど不動の女王も、世界では勝てなかった。94年リレハンメル五輪は4位。その1カ月後に千葉で開催された世界選手権では納得の演技をしながら、同五輪5位の佐藤有香に僅差で敗れ2位。採点への不満から表彰式に姿を現さず、関係者に促されてやっと立った表彰台で首にかけられた銀メダルを即座に外している。
4回転を封印して芸術性を追求したこともある。男子でも難しいコンビネーションジャンプに成功したこともある。それでも評価は上がらなかった。身体能力やジャンプに頼って細やかな技術を見逃した、という指摘もあった。一部ではその肌の色が影響しているのでは、とも言われた。
キス・アンド・クライのボナリーは、女子シングル史上最年少の15歳8カ月で五輪金メダルを獲得したタラ・リピンスキー(米国)の演技を見守った後、静かにステージ裏に消えた。悲運のスケーターは世界の頂点に立てぬまま、長野を最後にプロの道を歩き出した。(敬称略)(2017年12月9日紙面から)