あの人の教えがあったからこそ今がある。北海道にゆかりある著名人たちの、転機となった師との出会いや言葉に焦点をあてた「私の恩師」。「イエス! フォーリンラブ」でおなじみのお笑いコンビ「フォーリンラブ」のバービー(31)は、反抗期に栗山高で出会ったテニス部の黒田守先生(49)が、人生を切り開くきっかけになった。何事にも無気力で、人生を悲観していた少女が、テニスを通して強さを身につけ、芸人としての道を歩み出す。高校時代に「メシア(救世主)様」とまで呼んだ恩師について、バービーが語った。

 学校はよくサボりました。家出もしました。ドラえもんののび太くんがいるような土管の中や、団地の踊り場で、1人で勝手に人生を悲観してました。「世の中くそくらえ」みたいな感じで。勉強は普段は全くしないけど、テスト前に少しやればできたので「チョロいぜ」と、思ってました。若気の至りです(笑い)。

 テニス部は同期が7人くらいで、自分だけ不真面目でした。黒田先生にはよく「覇気がない」って怒られました。思春期真っただ中の反抗心丸出しで周りともあまりつるまなかった。怒られているうちに反発心まで芽生えてきました。

 それがピークに達した時に、先生に「お前帰っていいよ」って言われて、本当に帰ろうとして呼び出されました。「のびしろが一番あるから怒るんだ。可能性を感じるから厳しくしている。今のままじゃ宝のもちぐされだ」と言われて、初めて物事に前向きに取り組めるようになりました。

 そこからは部活命(いのち)。当時の田舎のテニス部は、ポーンと球を出して、ポーンと打って、基礎を少しやって、という感じでしたけど、先生は当時から伊達公子さんのイメージトレーニングなんかを座学で教えてくれました。

 バケツで水を投げる練習では、ただ「パシャッ」と投げるのではなくて、自分で理想の軌道や、落とす地点までをしっかり意識させられました。「意識して、(ポイントを)つかんだ時に延々と繰り返せ。そうすれば体に動きが染み付く」と。ラケットを使う時も、スイングの軌道や、ボールの回転数、落とす位置まで意識させられました。「意識をして、繰り返す」というのは、ドラマの撮影なんかでも同じで、今も本当に役に立っています。

 先生に救われた生徒は多かったみたいで、みんな「メシア様」って呼んでました(笑い)。黒くて、細くて、今でいう蛇顔。かっこいいわけではないので、(恋愛の)対象ではなかったけど、尊敬しまくり。先生がいたのは1年だけでしたが、その時代はまぶしすぎるぐらいのキラキラ感で、朝5時から朝練をして、日が暮れるまでボールを打ちました。「みんなが3年生になった時の総体では、必ず全国大会に行けるか行けないかのところまで行く」って言われて、実際に「もう少しで全国」のところまで行きました。弱小田舎テニス部の奇跡です。

 「試合では負けていても、負けているような顔をするな。いつも強気な顔をしていろ」という先生の言葉は、私のスイッチ。バラエティー番組で「堂々としすぎや」とか「なんでそんなに自信満々なの?」と突っ込まれることもありますが、それは、高校時代に培ったポーカーフェースみたいなのが染み付いているから。普段はすごい人見知りで全然話さないけど、本番ではスイッチが入る。そのスイッチを先生が作ってくれたから、今の私があります。【取材・構成 中島洋尚】

 現札幌開成高テニス部の黒田監督 当時はいいセンスをしているのに、うまくいかないとふてくされる感じがあって、1度怒ったことがありました。それからは、試合前に「アップしよう」と指示すると「もう終わってます」というほど、朝早くから練習していました。

 あとはとにかく食べる女の子たちでした。全道大会中の苫小牧の宿舎で、自分たちの中華料理の大皿を全部食べた後、他の学校の生徒が残したものを「食べたい」って言う。結局は新たに料理を追加してもらったのですが、それも全部食べてしまい「よく食べますね」とホテルの方に言われてしまいました。

 彼女たちと全国大会に行きたい思いが強かったので転勤になった時は後ろ髪を引かれました。今の高校生にもバービーの話は、よくしています。どんなに厳しい道でも、一生懸命頑張れば切り開けるという、すばらしいお手本です。

 ◆バービー 本名・笹森花菜(ささもり・かな)。1984年(昭59)1月26日、栗山町生まれ。栗山中で軟式テニスを始め、高校から硬式。東洋大卒業後、ワタナベコメディスクールに2期生として入学。イモトアヤコとのコンビ「東京ホルモン娘」を経て、07年にハジメと「フォーリンラブ」結成。08年のフジテレビ系「爆笑レッドカーペット」でテレビ初出演。趣味は美容、インド哲学、ファッションなど。特技のテニスとチベット体操でインストラクター資格を持つ。家族は両親と兄、姉2人。