名曲やヒット曲の秘話を紹介する連載「歌っていいな」の第37回は、97年に発表されたロックバンドGLAYの大ヒット曲「HOWEVER」です。当時の若者たちの心をつかんだ名曲ですが、宣伝スタッフが仕掛けた作戦は、意外にも地道なものでした。これが奏功し、メンバーが持つ素朴さと結び付いて、時代を象徴する名曲となりました。
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97年11月中旬、GLAYのベストアルバム「REVIEW」が、発売1カ月半で売り上げ400万枚を突破した。
その前年、ヒットメーカー小室哲哉率いるglobeが、初めて達成した音楽界の「K点越え」だ。ロックアルバムは、ビッグヒットしないという定説を、函館市出身の4人が覆した。
400万枚突破への導火線とも言えるGLAYの大ヒットシングル「HOWEVER」は、雄大なメロディーにのせて、「言葉にできないほどの愛を君にささげよう」と純愛を歌った。
同曲は意外にもその宣伝戦略は、主流のタイアップではなく、演歌など流行歌系の歌手が主に行っていた「パワー・プレー」戦略が取られた。全国のラジオ局に推薦曲として毎日繰り返し放送を願う作戦だった。当時所属していたレコード会社の関係者は「タイアップがない分、逆に番組や商品のイメージが付かず、ラジオ局は取り上げやすかった」と振り返る。地道な戦略が功を奏して、パワー・プレーに協力してくれた局は、全国約100局のうち半数近くとなる48局に上った。
下積みからビッグへ駆け上がった過程もまた古典的だった。GLAYのプロデューサーで、彼らが憧れたBOφWYも手掛けた佐久間正英さんは「いい意味で古くさいんです。曲も歌詞も正統派で、変に格好つけた部分がない。素直で一生懸命なバンドなんです」と表現した。
X JAPANのYOSHIKIのスカウトがきっかけで成功したことが注目されるが、実は苦労の連続だった。リーダーのTAKUROはビートルズで音楽に目覚め、尾崎豊さんに刺激を受けた学生時代を過ごした。高校生だった1988年(昭63)に、中学時代の友人だったTERUらとGLAYを結成。地元での人気に背中を押される形で、卒業後はプロを目指して上京した。
まずは収入を確保するため、印刷工場にそろって入社した。しかし残業の連続で、肝心の音楽活動に身が入らず、3カ月後に退社した。実入りのいい道路工事のバイトをしながら、函館時代からの友人宅に半年居候したこともあった。
ハードロックが主流の自主制作レーベル(インディーズ)からポップな彼らを異端児扱いされたこともあったが、それでも彼らの純粋な音楽志向は変わらず、やがて「HOWEVER」が生まれた。
かつてロックはアウトローの代名詞だった。佐久間さんは「今の時代は逆で、みんな、まともなことに憧れているんじゃないかな。それにまじめじゃないと、楽器の練習も長続きしない。最近のアーティストに”いい人”が多いのもそのせいで、ファンもそれを望んでいる」と話す。
バンド名「GLAY」は「白でも黒でもない存在」をイメージしてTAKUROが命名した。政治も文化も両極端がない昨今、中間色のグレーがぴったりの時代になったのだろう。【特別取材班】
※この記事は97年11月28日付の日刊スポーツに掲載されたものです。一部、加筆修正しました。連載「歌っていいな」は毎週日曜日に配信しています。