【吉井理人】「いしい君!」 ミスターも参戦した日米争奪戦の真相語る/連載〈2〉

パイオニアの野茂英雄より早く、メジャー移籍を直訴した日本人投手がいました。現在、ロッテを率いる吉井理人監督(59)。1983年のドラフト2位で近鉄入りし、プロ5年目の88年に最優秀救援投手のタイトルを獲得。球団に「メジャーに行かせて」と訴えましたが一蹴され、97年オフのFA権取得でようやく夢を実現させました。昨年12月に地元・有田市で野球人生を振り返るトークショーを開催し、波瀾万丈のメジャーリーグ生活、指導者としての指導理念などを語り尽くしました。(敬称略)

プロ野球

◆吉井理人(よしい・まさと)1965年(昭40)4月20日生まれ、和歌山県出身。箕島から83年ドラフト2位で近鉄入団。88年最優秀救援投手。95年トレードでヤクルト移籍。97年オフにFAでメッツ入団。ロッキーズ、エクスポズを経て、03年オリックスで日本球界復帰。07年途中ロッテに移籍し同年引退。日米通算121勝129敗62セーブ、防御率4・14。08年から日本ハム投手コーチ。ソフトバンク、日本ハム、ロッテでも担当し、22年オフにロッテの監督に就任。187センチ、89キロ。右投げ右打ち。

不発に終わったメジャー直訴のその後

山崎慎太郎(左)とボールを手にポーズをとる近鉄吉井理人=1988年6月

山崎慎太郎(左)とボールを手にポーズをとる近鉄吉井理人=1988年6月

吉井理人の近鉄時代のメジャー直訴は、時期尚早で終わった。

前田泰男球団社長とのやりとりは、吉井の「メジャー行かせ!」、前田球団社長の「アホか!」の応酬で終了。

1988年に最優秀救援投手賞を受賞した直後の訴えだったが、83年ドラフト2位でのプロ入りからようやく1軍で活躍し始めたばかり。

そんな立場の選手のメジャー挑戦を認める球団は、なかなかない。

希望が通る可能性が低すぎる交渉だった。

「半分、アメリカで野球するっていうのは本当に夢のまた夢なんかなと思いながらプレーしてて。94年のオフにヤクルトにトレードになったとき、FAの権利があと3年で取れるという状況でした。FA権を取ったとき、まだ自分にやれる自信があったらメジャーに行こうと決めました」

吉井は93年に抑えから先発に転向したが、抑え時代の88年の10勝を最後に2桁勝利に届かないシーズンが続いていた。

それがヤクルト移籍1年目の95年に7年ぶりに2桁10勝を挙げ、翌年も10勝。

広島戦で完投勝利をおさめたヤクルト吉井理人(右)は野村克也監督と握手を交わす=1996年4月30日

広島戦で完投勝利をおさめたヤクルト吉井理人(右)は野村克也監督と握手を交わす=1996年4月30日

97年は自己最多13勝を挙げ、野村克也率いるヤクルトのリーグ優勝、日本一に貢献した。

予想外のFA争奪戦

そのオフ、晴れてFA権を獲得。メジャー挑戦へ、潮は満ちた…はずだった。

思わぬ事態が起きた。

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古代の王国トロイを発見したシュリーマンにあこがれ、考古学者を目指して西洋史学科に入学するも、発掘現場の過酷な環境に耐えられないと自主判断し、早々と断念。
似ても似つかない仕事に就き、複数のプロ野球球団、アマ野球、宝塚歌劇団、映画などを担当。
トロイの 木馬発見! とまではいかなくても、いくつかの後世に残したい出来事に出会いました。それらを記事として書き残すことで、のちの人々が知ってくれたらありがたいな、と思う毎日です。