【イチロー大相撲〈28〉】横綱北の富士引退から50年〈3〉休場中に海釣りでリフレッシュ

第52代横綱北の富士が引退してから、今年で50年になる。

この節目に、日刊スポーツの過去の記事や写真で、当時の北の富士さんを3回にわけて振り返る。

連載の3回目は、北の富士さんのエピソード集。

北の富士さんにスカウトされて角界入りした三役呼び出し重夫には、よく知る師匠の素顔を披露してもらった。

大相撲

横綱審議委員会の推挙が決まり、師匠の九重親方(右=52代横綱北の富士)、後援会長の鈴木宗男衆院議員(左)、兄弟子の横綱千代の富士(後方)から祝福を受ける北勝海(1987年5月25日 撮影)

横綱審議委員会の推挙が決まり、師匠の九重親方(右=52代横綱北の富士)、後援会長の鈴木宗男衆院議員(左)、兄弟子の横綱千代の富士(後方)から祝福を受ける北勝海(1987年5月25日 撮影)

北海道から上京し、52代横綱となった。親方になってからは、千代の富士と北勝海の横綱2人を育てた。定年を待たずに日本相撲協会を退職。現役時代からずっと、82歳になった今も北の富士さんの人気は衰えない。

共感を得やすい自由奔放な発言が面白く、女性にもてて、おしゃれでもある。豪快な生きざまは、エピソードに事欠かない。

入門以来、40年以上の付き合いがある重夫は「親方はちょっと、天然なところもありますよね」と言い、「オレが結婚する時に仲人をしてもらったんだけど、忘れてましたからね」と笑う。

北の富士さんが相撲協会退職後、久しぶりに札幌巡業で会った時の話。

「親方がいらしたので、会場にご案内しました。その時『あれっ、重夫ってこんなに小さかったかな?』と驚いていました。『いやいや、親方が今、ゲタを履いてるからですよ』って言ったら、笑ってましたね」

日刊スポーツの過去の紙面にも、多くのエピソードが残っている。

まずは、1972年(昭和47年)5月28日付の紙面を紹介したい。

夏場所8日目 小結貴ノ花(左)に敗れ、3勝5敗となった北の富士(右)は9日目から休場(1972年5月21日撮影)

夏場所8日目 小結貴ノ花(左)に敗れ、3勝5敗となった北の富士(右)は9日目から休場(1972年5月21日撮影)

不眠症で休場

1970年春場所で北の富士が新横綱となった時、大鵬、玉の海を含めて3横綱となっていた。しかし、1971年5月に大鵬が引退、同年10月に玉の海が急逝。北の富士は1人横綱となっていた。

1972年夏場所、30歳になっていた横綱北の富士は3場所連続で不振だった。3勝5敗となったところで休場した。

休場には診断書を提出しなければならない。成績不振だったが、ケガはない。相撲診療所で検査を受け、「不眠症」による休場になった。

北の富士さんが語った後日談によれば、「負けが込んでると眠れませんよ」と言ったところ「じゃあ不眠症だ」との診断がくだされた。

「不眠症で休場」は、すっかり有名なエピソードになっている。

夏場所8日目、報道陣とファンにもみくちゃになりながら車に乗り込む北の富士、協会から休場勧告が出された(1972年5月21日撮影)

夏場所8日目、報道陣とファンにもみくちゃになりながら車に乗り込む北の富士、協会から休場勧告が出された(1972年5月21日撮影)

休場勧告を受けた横綱北の富士(右)は相撲診療所で検査、診察を受ける。左は美濃部浩一所長。身体に異常はなく前代未聞の「不眠症」での休場となった(1972年5月22日撮影)

休場勧告を受けた横綱北の富士(右)は相撲診療所で検査、診察を受ける。左は美濃部浩一所長。身体に異常はなく前代未聞の「不眠症」での休場となった(1972年5月22日撮影)

休場になれば一般的に、部屋や自宅にこもり、マスコミの前からは姿を消して治療や静養に努める。

しかし、北の富士さんは千葉県館山市で休養し、しっかり取材に応じている。今なら考えられない、本場所中に休場している様子が赤裸々に記事になった。海釣りをしながら、心境を語っている。

1972年(昭和47年)5月28日付の日刊スポーツ

【注】この記事には、不適切な事象・表現が含まれていますが、時代による言語表現や文化・風俗の変遷を描く記事の特性に鑑み、1972年当時のまま掲載します。

1972年夏場所9日目から「不眠症」で休場、千葉・館山で“傷心”を癒やす北の富士(1972年5月24日撮影)

1972年夏場所9日目から「不眠症」で休場、千葉・館山で“傷心”を癒やす北の富士(1972年5月24日撮影)

三場所連続不成績。お家(相撲協会)の事情で、身を引くことも出来ず、余儀なく休場した北の富士は今、房総館山の片田舎で傷心をいやしている。澄みきった空と海と山、そして素朴な人達の暖かい目に見守られながら、名古屋場所の再起を目指し養生する北の富士の一日は--。

館山市浜田--そこはパラダイスだった。関東最南端の洲崎(すのさき)に続く約八キロの海岸線はなだらかな砂浜と岩場。土地っ子の自慢は「ここの海はPCBも水銀も関係ない」ことだ。海水は七、八メートル底まで澄んで見えた。そこにはウニやあわび、伊勢エビが群生している。

北の富士が身を寄せている家の主人綱代勘太郎さんは記者にこう語りかけた。「お客さん、夏になったら、家族一緒でいらっしゃい。なあに、気を遣うことなんか、ありませんよ。米も野菜もウチでとれるのが余ってる。ニワトリを飼ってるから卵も肉もタダ。ミソだって自家製なんだから」自然が美しければ、人の心も純粋。

ここで北の富士は連日魚釣り。朝八時に起きて、軽い朝食を済ませると、リールザオを手に自転車にまたがり海岸へ。浜ではここで造船所を営む綱代新太郎さん一家が待っていて、すぐ沖へ出る。あとは夕方五時過ぎまで、昼食のニギリ飯を食べる時以外は、陸へ戻ってこない。夜は九時前に寝る。「どうだい。日焼けしたろう。東京へ帰ったら、みんなの前ではハワイに行ってきたことにしようかな」と真っ黒な顔をほころばす北の富士には、3勝5敗と、みじめな成績のまま途中休場した横綱の暗さはみられない。「ここにきた最初の日は、ションボリしてましたが、今じゃ、もう……」と新太郎さん。

「船に乗っているのが一番いいな。沖に出ちゃえばだれの声も聞こえない」という北の富士だが「クニ(旭川)に帰ったら? 石をぶつけられるんじゃないかな」ともいった。ショックはまだ抜けきっていないのだ。

本文残り63% (3592文字/5741文字)

スポーツ

佐々木一郎Ichiro Sasaki

Chiba

1996年入社。2023年11月から、日刊スポーツ・プレミアムの3代目編集長。これまでオリンピック、サッカー、大相撲などの取材を担当してきました。 X(旧ツイッター)のアカウント@ichiro_SUMOで、大相撲情報を発信中。著書に「稽古場物語」「関取になれなかった男たち」(いずれもベースボール・マガジン社)があります。