【妙義龍の引退会見全文】「師匠から『思いっきりやれ』『堂々といけ』と言っていただいた」

最高位関脇の妙義龍(37=境川)が26日、東京・両国国技館で、涙を見せずに終始晴れやかな表情で引退会見を行った。西十両9枚目で臨んだ今月の秋場所を「左変形性膝関節症」の診断書を提出して全休。九州場所(11月10日初日、福岡国際センター)は13年ぶりの幕下転落が確実視されていた中で24日に、引退と年寄「振分」の襲名が発表されていた。

師匠の境川親方(元小結両国)同席で行われた、引退会見の一問一答を全て紹介する。

大相撲

引退会見に臨む妙義龍(撮影・小沢裕)

引退会見に臨む妙義龍(撮影・小沢裕)

皮膚と腱を移植した大手術

日本相撲協会広報部・西岩親方(元関脇若の里) ただいまより妙義龍引退、年寄「振分」襲名会見を行います。はじめに師匠、境川より、ごあいさつがあります。

境川親方 本日は皆さま方お忙しい中、妙義龍の引退会見に、こんな多数の方に出席いただき、誠にありがとうございます。妙義龍もこの数場所、皆さんもご承知のように、もう自分の中でも、引退っちゅうもんが、頭の中を巡っていたと思います。長い間、妙義龍をご支援いただきまして、ありがとうございました。今日はよろしくお願いします。

西岩親方 続きまして、妙義龍改め振分よりごあいさつがあります。

引退会見に臨む妙義龍。右は師匠の境川親方(撮影・小沢裕)

引退会見に臨む妙義龍。右は師匠の境川親方(撮影・小沢裕)

妙義龍 本日はこのような引退の会見の場を設けていただき、ありがとうございます。私、妙義龍は、本日を持ちまして現役を引退することになりました。今後は年寄振分として、後進の指導にあたります。全国の境川部屋の関係者の皆さま、大相撲ファンの皆さま、たくさんの温かいご声援、ありがとうございました。

西岩親方 それでは代表質問に移ります。よろしくお願いします。

―よろしくお願いします。

境川親方&妙義龍 よろしくお願いします。

―今、率直な心境としてはいかがですか

妙義龍 そうですね。いつかは、こういう日が来るなと思って、現役生活をしていたので、まあ、悔いを残さないように、最後まで現役生活を全うできました。悔いもないし、全てやりきりました。

―最終的には引退の決断はいつごろ

妙義龍 そうですね、やっぱ、2、3年ぐらいは。やっぱり自分の相撲が取れないなというか。自分の武器のスピード感とか、えー、そういう体の柔らかさとか、そういうのが今までと違うなってのを感じてたんで、この引退ということを決めました。

引退会見に臨む妙義龍(撮影・小沢裕)

引退会見に臨む妙義龍(撮影・小沢裕)

―引退の引き金となった一番、引退を決断した一番はあったか

妙義龍 いや、それはなかったです。はい。

―15年余り。幕内も71場所。振り返るとどんな力士人生

妙義龍 そうですね、やっぱりケガが多かったので、ケガには負けたくないっていう気持ちで。で、ケガをしても、その怪我した時の番付以上に戻れるように、しっかり体づくりして取り組んで。でも元気な相撲も取れて、本当にこう。まさかこの年まで現役をできるとは思わなかったので、すごくうれしく思いますし、幸せな土俵生活でした。

十両昇進時に宮本から「妙義龍」に改名した(2009年12月2日撮影)

十両昇進時に宮本から「妙義龍」に改名した(2009年12月2日撮影)

―新十両の場所で大ケガ。そのケガがどう影響したか

妙義龍 そこで3場所全休して、十両から三段目の94枚目まで落ちたんですけど、師匠に「しっかりケガを治して、番付下がることは気にすんな」と言われたんで、そこでやっぱこう、もう1回、体づくりして、この大相撲の世界で戦える体をそこで作ったことが、ここまで現役をできたのかと思います。はい。

―半年以上、本場所に出られなかったが、後ろ向きになるようなことはなかったか

妙義龍 いや、それはなかったですね。もう、土俵に戻るっていう気持ちでやってました。

―師匠にもうかがいます。ケガを乗り越えて、という力士人生だったが、どういった頑張りを感じたか

境川親方 そうですね。最初の大相撲の世界の大ケガというのは、新十両の2日目だったと思うんですけれど、それで膝をやって大手術。断裂だったんでね。皮膚を移植して、腱を移植しての大手術だったんですよね。そんな簡単に治るけがでもないし、また本人が、地道に治す努力をするしかなかったので。そのころ我々は、もう見守るしかないですからね。

妙義龍の引退会見に臨む師匠の境川親方(撮影・小沢裕)

妙義龍の引退会見に臨む師匠の境川親方(撮影・小沢裕)

―本人は多くは語らないタイプだが、近くで見ていて努力というのは

境川親方 それはもう、すごかったですね。土俵の稽古も、復調というか、あんな大ケガすると完治はないですからね。土俵に入って稽古するようになってからは、土俵の稽古もですけれども、やはり、ケガした場所を鍛えるトレーニングとか、これは本当に、すごい頑張りだったんじゃないですか。

「思いっきりやれ」「堂々といけ」

―部屋の中でも大関豪栄道が同い年で、近い年齢にも豊響、佐田の海もいた

境川親方 そうですね。やっぱり、みんな年格好が近かったんで、お互いに腹の中では「負けたくない」という気持ちが、相乗効果につながったというか。そういう切磋琢磨(せっさたくま)した姿は。今まで部屋やってきて、あのころの稽古が一番、見ていてもこっちも楽しかったしね。迫力もあったし。はい。

―その中でも妙義龍という力士はどんな存在

境川親方 まあ、入門当初から、やっぱり基本をとにかく。準備運動から何から。やっぱり、基本に忠実で今日まで来たんじゃないですかね。

のぼりをバックに笑顔の新小結妙義龍(2012年6月25日撮影)

のぼりをバックに笑顔の新小結妙義龍(2012年6月25日撮影)

―先ほど本人も「この年までできるとは」と言っていた。師匠から見ても

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1999年入社。現在のスポーツ部ではサッカー(1)→バトル→五輪→相撲(1)→(5年半ほど他部署)→サッカー(2)→相撲(2)→ゴルフと担当。他に写真部、東北総局、広告事業部にも在籍。
よく担当や部署が替わるので、社内でも配った名刺の数はかなり多い部類。
数年前までは食べる量も社内でも上位で、わんこそばだと最高223杯。相撲担当になりたてのころ、厳しくも優しい境川親方(元小結両国)に「遠慮なく、ちゃんこ食っていけ」と言われ、本当に遠慮なく食べ続けていたら、散歩から戻った同親方に「いつまで食ってんだ、バカヤロー!」と怒られたのが懐かしいです。