多くの野球人に頼られた名医がいる。2013年(平25)の2月、81歳で死去した横浜南共済病院の山田勝久院長。

 ◇  ◇  ◇

横浜中華街の奥にたたずむ「清風楼」。池波正太郎が愛した大粒のシューマイと特盛りチャーハンは、健啖(けんたん)家の山田先生も大好物だった。酷暑の12年夏も同じ。指定席の円卓を陣取り、もりもり食べながら「人間には2つのタイプがある」と言った。

「手術をするとよく分かる。『オレは悪い箇所を取り除いた。だから、前よりもっと元気になるんだ』と考える人。『本当に治ったんだろうか。再発したり、かえって悪化することはないのか』と不安に思う人。前向きな人の方が、術後の経過もいいことが多い。不思議なものでね」

あっという間に皿がキレイになった。「佐々木君が最たる例だな。『先生、また手術してくださいよ。強くなれるから』って明るく。ああいう選手が極めていく。谷繁君もそうだ。とにかく明るい」。冷水を流し込むと「次は肉を食べよう。元気が出る」と笑った。

数カ月後、ハマスタで先生と出くわした。「でかいステーキを食おう」。関内のステーキハウス「瀬里奈」に向かった。相変わらずの勢いで平らげると、唐突に「オレはもうすぐ死ぬんだ」と放り込まれた。

神妙な感じはない。「一応、医者だから分かるよ。がんでさ」。手術すれば? 「周りに迷惑をかけたくない。そもそも入院も、手術も嫌いだ。十分、楽しませてもらった。君もあまり仕事に根を詰めるな。人生は楽しまないと損だ」。

驚きの告白はもう1つあった。山高帽、黒縁メガネの好々爺(や)が「今まで言わなかったけど、オレは箱根駅伝を走っている。調べてごらん」。1954年(昭29)の第30回大会。横浜市立大の9区に「山田勝久」の名前があった。

年が明け、2月の上旬に電話がきた。かすれ声で「ソニーのテープレコーダーを買ったんだ」と聞こえてきた。

03年3月、佐々木の手術した右ひじの状態を確認するためキャンプ地ピオリアを訪問した横浜南共済病院の山田院長
03年3月、佐々木の手術した右ひじの状態を確認するためキャンプ地ピオリアを訪問した横浜南共済病院の山田院長

「これから佐々木君の野球人生を録音するのだ。ベッドの上でもできるから」

「なぜ録音ですか」

「最近カルテを読み返しているんだが、日本のスポーツ医学に大きな貢献をした選手だ。我々を信じて委ね、手術のたびに強くなって戻ってくれた。成功体験として、勇気と自信を与えてくれた。何より、彼は優しい。あんなに繰り返して感謝を伝えてくれた患者はいない。いつか野球殿堂に入るとき、またユニホームを着るとき、このテープが資料になるはずだから」

悟っていたのだろう。「急がなくちゃいけないから。じゃあな」と一方的に切れ、2週間後に死去した。

日本人メジャーがメディカルチェックを受ける際「ドクターヤマダ」のお墨付きには鉄の信頼があったという。肘、肩、股関節。連動性が高い要の権威として、長く日本球界を支えた。

ハマスタを望む丘の上にある斎場で、お別れの会が行われた。口癖は「だって、かわいそうじゃん。治してあげないと」。院長室のドアをいつも開け放ち、用もないのに野球人が集った。アスリートの気持ちを熟知し「オレは治る」と思わせるその人柄でスポーツ医学の敷居を下げ、現場との距離をグッと縮めた。だから愛された。【宮下敬至】

◆佐々木主浩氏(日刊スポーツ評論家)「横浜南共済病院で肘の手術をしたプロ野球選手って、私が最初の方だったと思う。(94年に)1回目をやった時は、山田院長に本当にプレッシャーをかけられた。『お前がちゃんと復帰してくれなかったら、ウチの病院がダメってことになる。頼むぞ』って(笑い)。今でこそ肘にメスを入れるのは普通のことになっているけど、当時は不安だらけ。でも院長がリハビリやキャッチボールにも付き添ってくれたり、本当に親身になってやってくれたから、その後の手術は安心感があった」

◆谷繁元信氏(日刊スポーツ評論家)「オフに腰の手術を受けて1週間の入院が必要な時があった。いい機会だからたばこをやめようと考えていたら、術後2日後に先生が『たばこを吸いに行こう』と誘ってきた。禁煙しようと思っていると伝えたら『吸わなくても肺がんになる人はいるし、吸っても肺がんにならない人もいる。吸えばいいじゃないか』と言われて結局やめられなかった。笑えないけど、最後は先生が肺がんになってしまった。本当に豪快で面白い方だった」