横浜の同期生で名参謀の小倉清一郎とともに高校球史に残る歴史を築き上げた。「小倉も教職を取ったが、ほとんど授業は教えなかった。その間、野球の勉強をものすごくしていた。勝たせる野球、ID野球をね」。渡辺の精神野球と小倉の戦略野球は見事にマッチした。名前を「元智」に変えた翌98年、エース松坂大輔を擁して達成した甲子園春夏連覇は、高校野球の枠を飛び越えて世に知られた。
あの栄光の礎には悲運のエースがいた。
「丹波が生きていれば松坂以上の投手になったかもしれない。私の指導者人生の中で一番の教科書といえる選手だった」
95年8月。将来を嘱望された丹波慎也が高校2年で亡くなった。秋の県大会に向けて練習試合を終え、自宅に帰った翌朝に急死した。「頭が良くて不言実行。礼儀正しく無駄口をたたかない。時間があれば黙って外野を走る優等生だった」。喪に服したチームは秋の大会を辞退するつもりだったが、丹波の母に「チームのために、慎也のために試合に出て下さい」と懇願された。意を決し、一丸となったチームは翌春、夏と甲子園へ出場。特に、夏は15年ぶりの1勝をあげた。
「あのチームは歴代を見ればそこまで強いチームではなかった。でも、丹波のためにみんながまとまった。勝てた理由は、そこしかない。2年後の春夏連覇にもつながっていると思う。伝統には目に見えないものがある」
ラミネート加工された丹波の写真は、23年間財布に入れて持ち歩いている。
厳しい時代を経て、忍耐と対話の時代、そして現在は「個の時代」だと感じている。例えば、携帯電話のメールを覚えたのは、試合で負けて口を利かなかった涌井秀章と会話をするため。約半世紀の間、勝つための信念を貫きながら変わり続けた。
15年夏の神奈川大会を最後に勇退した後、野球部総監督を返上し、人材育成や青少年教育に力を注ぐ。教育、医療関係など多岐にわたる依頼主からオファーを受け、各地で講演を行う。
「野球は1試合9イニングの中に人生が詰まっている。考えるスポーツ。だから野球をやってもらいたい。そのためにはまず、親御さんにそれを説かないと。野球を選択する環境を作ることが大事」。夏には甲子園100回大会を迎える。「移りゆく中で先人たちが築き上げてきたもの、歴史を忘れないでほしい。野球が、高校野球が人を作る。いつまでもそうあってほしい」。できないことをできるまでやる。好きな野球で我慢を覚えることで、後の人生はきっと豊かになる。多くの教え子がそれを証明してくれている。
昭和の厳しい時代に在籍していた選手が「同窓会」を開いてくれるのが楽しみだ。60代の“選手”も渡辺の前では背筋を伸ばして最敬礼する。生き抜くために選んだ野球。「間違いばかりだった」(渡辺)指導の原点を作ってくれた選手たちを、忘れることはない。
「目標が、その日その日を支配する。失敗が、挫折が、敗北がそれを教えてくれた」
(おわり=敬称略)【和田美保】
(2018年3月23日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)