【玉正鳳の言葉】「心と自分を知ることで、相撲も変わってきました」

日本相撲協会は12月23日、初場所(2025年1月12日初日、東京・両国国技館)の新番付を発表し、モンゴル出身の玉正鳳(31=片男波)が、外国出身力士として戦後1位のスロー出世となる、初土俵から所要79場所で新入幕を果たしました。従来はロシア出身の阿夢露の所要74場所が、外国出身として最も遅い新入幕でしたが、これを5場所上回りました。31歳9カ月17日での新入幕も、日本出身を含めても、戦後8位の高齢昇進。都内の部屋で行われた新入幕会見では、兄弟子で義理の兄でもある関取衆最年長40歳の玉鷲のように、息の長い活躍を誓いました。

大相撲

会見で笑顔を見せる新入幕の玉正鳳(左)と片男波親方(撮影・垰建太)

会見で笑顔を見せる新入幕の玉正鳳(左)と片男波親方(撮影・垰建太)

(会見前に師匠に指示され、部屋の力士が4人しかいないこともあって、玉正鳳自ら会見する部屋の電気をつける)

片男波親方(元関脇玉春日、以下師匠)明るいですよね、この方が。

司会者それでは、玉正鳳関の新入幕会見を始めさせていただきます。

―昇進おめでとうございます。幕内力士になった気持ちは

玉正鳳やっぱり、うれしいですね、はい。

新番付表を手にしこ名を指さす新入幕の玉正鳳(撮影・垰建太)

新番付表を手にしこ名を指さす新入幕の玉正鳳(撮影・垰建太)

―番付の一番上にしこ名が載っていますが

玉正鳳長年の夢であって、目標でもあったので、達成できてよかったなと思っています。

―大相撲の世界に入ったころ、幕内に上がることは想像できていましたか

玉正鳳入った時は、まだ何も知らない子だったので、上がるとは口だけで、そこに何があるのかは、全く分からなかったですね。

―若いころは幕内力士にどういったイメージを持っていましたか

玉正鳳みんな力持ちで大きくて、カッコイイなというイメージが、すごくありました、はい。あと、みんな怖かったですね(笑い)。怖い力士が上にいるというイメージが強かったです。

―ちなみに誰のこと

玉正鳳いや全体です。みんなです(笑い)。みんな優しいんですけど、入った時は。

―その幕内に自分が上がりましたが

玉正鳳これからって感じですね。まだまだこれから、もっと成長していきたいと思います。

―初土俵から所要79場所での昇進は、外国出身では戦後最も遅い記録でした

玉正鳳エッへへへ。それはあんまり気にしてないです。早く上がるか遅く上がるかはこれからなんで。上がってから長く相撲を取れれば、それで十分と思っています。

新番付表を手にしこ名を指さす新入幕の玉正鳳(撮影・垰建太)

新番付表を手にしこ名を指さす新入幕の玉正鳳(撮影・垰建太)

―昇進できた要因は

玉正鳳やっぱり、理由の1つは、片男波部屋に入って「心技体」があるんですけど、師匠がいつも「心(しん)を磨け」と、日ごろからずっと教えてもらっていたので。やっぱり、心と自分を知ることで、相撲も変わってきました。いろいろと見る角度というんですか、相撲を全体的に見る角度も変わってきたので。人に優しくして、自分の悪いところをちゃんと受け入れる。そういうことを教えていただいて、そこから変わってきましたね。やっぱり明るくなりました。自分自身が。

―以前から明るいイメージでしたが

玉正鳳いや、明るいイメージはあるんですけど、心の強さがなかったので。それはやっぱり、すごくついたと思います。

―心の中

玉正鳳はい。心の強さですか。

―それが相撲に、どのように良い影響がありましたか

玉正鳳考え方が変わると、自然に気持ちも元気になって、相撲も若々しくなって、若返っている感じがしますね。「自分は若い」と思い込むようになるし、いいことをしたら、いいことが返ってくると思うし、日ごろの小さい、いいことの積み重ねが、強くなる1つの原因だと思います。

―4年前にこの部屋に移ってきましたが、あらためて、この部屋に来てどうでしたか

玉正鳳やっぱり、よかったと思います。受け入れていただいて、はい。

(ここで宅配便業者が玄関を開けて「こんにちは、荷物です」と入ってくる)

―ちょっと荷物が

玉正鳳すみません(笑い)

師匠(宅配便業者に向かって)ちょっと待ってくださいね。すぐに若いのが来ますから。ちょっと待って。(報道陣から笑い)。

―では師匠にも。(切り出した途端に部屋の固定電話が大音量で鳴り、会見場は大爆笑)

―(電話の着信音が止まり)本人も「心技体」の「心」が大事と言っていたましたが、部屋に来たころはどのように見ていましたか

師匠来た時は、まあ、本人も先ほど言っていましたが、考え方がマイナスなんですよ。良くならないんじゃないかという発想のもとに生きているというか。何を言っても「いえ、自分はダメなんで」とか、もともとはそういう感じだったので、そこを「自分が良くなりたいと思わない人間が、どうやって良くなるんだ」ということろから始まって。「もっと自分自身のことを研究しろ」という話はずっと、今でもそうですけど。ずっとしてきました。ですから、おそらく相撲を何となくやっていたと思うんですよ。何となく。もともと器用だから、それでも相撲を取れていた、という部分でしょうかね。最初のころは。

新入幕の玉正鳳(左)と片男波親方は番付表を手に笑顔を見せる(撮影・垰建太)

新入幕の玉正鳳(左)と片男波親方は番付表を手に笑顔を見せる(撮影・垰建太)

―潜在能力としては、磨けば幕内までいけると思っていましたか

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1999年入社。現在のスポーツ部ではサッカー(1)→バトル→五輪→相撲(1)→(5年半ほど他部署)→サッカー(2)→相撲(2)→ゴルフと担当。他に写真部、東北総局、広告事業部にも在籍。
よく担当や部署が替わるので、社内でも配った名刺の数はかなり多い部類。
数年前までは食べる量も社内でも上位で、わんこそばだと最高223杯。相撲担当になりたてのころ、厳しくも優しい境川親方(元小結両国)に「遠慮なく、ちゃんこ食っていけ」と言われ、本当に遠慮なく食べ続けていたら、散歩から戻った同親方に「いつまで食ってんだ、バカヤロー!」と怒られたのが懐かしいです。