柿木蓮に練習相手を申し出…真っすぐも捕れるか分からないけど「いつでも声をかけて」

田村藤夫氏(65)のプレミアムリポート。10月28日に日本ハムから戦力外通告を受け、11月14日にはトライアウト受験も終え大きな岐路に立った柿木蓮投手(24=大阪桐蔭)について、田村氏が感じたことをそのままお届けします。

プロ野球

◆柿木蓮(かきぎ・れん)2000年(平12)6月25日生まれ、佐賀県多久市出身。大阪桐蔭では2年春から4季連続で甲子園に出場。3年時はエースとしてチームの春夏連覇に貢献。18年ドラフト5位で日本ハム入団。4年目の22年、6月11日中日戦でプロ初登板。1軍登板は同年の4試合のみで、23年から育成契約。今季推定年俸440万円。181センチ、87キロ。右投げ右打ち。

◆田村藤夫(たむら・ふじお)1959年(昭34)10月24日、千葉・習志野出身。関東第一から77年のドラフト6位で日本ハム入団。93年に初のベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞。93年オフ、巨人長嶋監督からFA移籍でのラブコールを受けたが、日本ハムに残留。96年オフには、ダイエー(現ソフトバンク)王監督から直接電話を受け、移籍を決断した。07年からは、中日の落合監督に請われ入閣。捕手としてONと落合氏から高く評価されたが、本人は「自分から人に話すことではない」とのスタンスをかたくなに守る。42年間のプロ野球生活を経て解説者に。通算1552試合出場、1123安打、110本塁打。@tamu2272

■柿木が、6年で日本ハムを去ることに、どうしても素直にうなずけない。

チーム事情でも、そして実力不足でも、球団から去るという結論は同じく選手にとっては非情なものだ。

だが、まだ支配下を目指して1歩たりとも引き下がる気持ちがなかった柿木に、こうした決断が下されたことは、私にとっても大いなる驚きだった。

支配下から育成になった場合は、基本は単年契約となる。7月末の段階で支配下に戻れなかった。そして、育成2年目が終わろうというタイミングで、退団という現実も十分に考えられた。

それでも、と私は思わずにいられない。

どうしても甲子園大会決勝でのマウンドで優勝投手になった柿木の雄姿が思い起こされる。

他の選手も同じだ。それぞれにプロ入りした背景や期待値があった。柿木だけが特別ではない。それはよく理解している。

その上で、あの最強大阪桐蔭のエースとして、高校野球の頂点に立った柿木が、6年で日本ハムを去ることに、どうしても素直にうなずけない。

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1959年(昭34)10月24日、千葉・習志野出身。
関東第一から77年のドラフト6位で日本ハム入団。93年に初のベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞。
93年オフ、巨人長嶋監督からFA移籍でのラブコールを受け(日本ハムに残留)、96年オフには、当時の王監督(現会長)から直接電話でダイエー(現ソフトバンク)移籍を決断。07年から中日落合監督に請われて入閣した。
ONと落合氏から高く評価された捕手だが、田村氏はそうした経緯について「自分から人に話すことではない」というスタンスをかたくなに守る。42年間のプロ野球生活を経て解説者に。プロ通算1552試合出場、1123安打、110本塁打。